Haruka2: Onmyoji

平安京の陰陽師

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MOKUJI
[陰陽道とは] [天文博士の実務] [安倍晴明] [賀茂光栄]
[暦道] [安倍家と賀茂家] [民間暦] [暦を配るには...]



  平安時代。
  朝起きてから寝るまで、貴族たちは星占いに従っていた。
  陰陽道(と宿曜道)という名の占術に。

  平安前期、陰陽師は、伝統の中務省直轄の陰陽寮で
  漢の書物を学び、学生として育成されていた。
  11世紀に陰陽道が安倍家、暦道が加茂家の独占となるや
  雲行きがあやしくなる。鎌倉・室町ではまっとうな理論を
  学ばない民間陰陽師が戦の勝利を祈祷するようになる。
  陰陽師とは、何であったのだろうか。



■日本の陰陽道とは
 日本陰陽道とは、実は、実用部分はだいたい中国の道教である。 陰陽道は、宗教ではなく、一応自然哲学のである。 飛鳥時代、仏教といっしょに百済から伝来したとされる。 たしかにそのとおりである。そのとおりであるが、中国の哲学・ 陰陽五行思想が陰陽道として伝来したのではない。

 中国の土着の宗教である「道教」が、中国土着の 哲学「陰陽五行思想」とまぜこぜになり、「陰陽道」 という名前になっ輸入されたのである。 陰陽五行思想の方が主で、道教が加わったのならわかるが、 事実上逆で道教の割合の方が多い。 理由が不明だが、日本書紀で**教という 名前がまずかったのではないだろうか。

 この輸入時の名前の書き換えのおかげで、現在誤解大爆発である。
 だいたい北斗七星なんか、中国の陰陽五行思想のはしっこにも でてこないぞ()。かの安倍晴明がよく祈祷していた、泰山府君という 冥土の神は道教の神だしー。そもそも陰陽五行に神様はでない。 方角の吉凶や暦の吉凶などもない。*年*月*日生まれの本命星 なんかもない。星神の霊府もない。これらは皆道教に属するものだ。 陰陽五行思想という、中国らしいダイナミックな自然哲学に、 「祈祷による救命」的な概念はない。
 中国の陰陽五行が輸入された部分ももちろんあり、5行の5色、 五行相生・相克の思想などがそうである。八卦も含まれるので、 純粋な表か裏か、の占いも中国陰陽五行に入る。

 まあそのしかし、平安時代になると、陰陽道は日本独自の占いが いっぱい追加され、道教とも、もちろん陰陽五行思想とも、 似ても似つかぬものに進化するので、もはや輸入の過程は どうでもよいかもしれない。


■天文博士の実務
 陰陽寮の組織は...3年前なら丁寧に書いておく必要があったが、 今やインターネットに、平安時代の陰陽寮の組織図はあふれかえって いる...()..偉大だ「陰陽師」...なのでカンタンにすますことにします。

●陰陽頭(カミ)---1番えらい人。従5位下相当。
●陰陽助(スケ)---2番目にえらい人。管理職。従6位上。
●陰陽大允、小允(ジョウ)---3番目にえらい人々。総務か?従7位上。
●陰陽大属、小属(サカン)---4番目にえらい人々。そろそろ現場かな。
ここまでが管理職、総務のようである。

●陰陽博士--陰陽、つまり星占い部門の教官。正七位下相当。
●天文博士--天体観測、記録の教官。”
●暦博士--暦編纂部分の教官。従七位上相応
●漏刻博士--時報部門の教官。”

●陰陽師--陰陽部門独自の役職。実際に占いをする技術職のようです。 従7位上相当で。定員6名。
 つまり、「博士」とは「教員(先生)」のことである。 最初の4職は陰陽寮独自の官職で、実務をになう学生たちの 先生である。陰陽師だけは教官ではありません。


●陰陽生--星占い部門の学生。10名。
●天文生--天文部門の学生。10名。
●暦生--暦部門の学生。10名
●守辰丁--漏刻部門の学生、20名。
 中国の書物などから、その道を学ぶ学生。天体観測などは 学生が交代で担当したので、実務もになっていた。。


 陰陽寮における「天文」部門とは、今でいう天文学ではもちろん ない。惑星が何宿にあるとか、天文現象を観測・記録する部門 である。観測は学生がやったが、めぼしい天文現象があった 場合、天文博士に報告される。天文博士はその天文現象を 見て、記録をとる。それを占い専門部署である、陰陽部門に 渡す。これが天文博士の主な仕事らしい。

 天文博士から、怪しい天文現象の記録をもらった陰陽師 チームは、様々な占い資料から「勧文」を作成し、 帝に密奏するらしい。天文現象部分は、日本書紀や三代実録など の記録文学によくみられるが、勧文は極秘であり、文書資料として 残っていないようである。

 この博士職は、学生の指導が本来メインの仕事である。 だから、天文博士も、ふだんは観測機器の 取り扱いから、観測方法、記録方法、どういった天文現象が 重要なのかなどなど、漢文の参考書を読ませながら教えるのが、 業務であったと思われる。
 助や允などの、総務系管理職と比べると、現場の技官といった 印象である。(よかった!)

 さて陰陽寮の4部門中、最も技術力を要するのはどれだろう。 おそらく、暦道である。他の部門の参考書が歴史書なのに対し、 暦道は数学本が半分を占める。コンピュータも何もない、筆算 だけの時代。望遠鏡どころか四分儀もない時代。陰陽寮の 暦道スタッフは、 太陽と月の軌道を計算し、日食を予報し、暦を作っていた。 必ずしも正確ではなかったが、充分、見事である。 今天文学やってる学生に、当時と同じ条件で、日食予報を させたら、参考書なしでは在学中にできないだろう。


■安倍晴明(921-1006)
 有名な陰陽師・安倍晴明は、「王都」や「陰陽師」ではせっせと 呪術をしていて、あんまり本来のジミ系な陰陽寮らしい仕事をしていない ようにみえます。しかし陰陽道史上、この人がかかわる、アル重要事件が あるので、研究上はずせないはずです。

 晴明は、記録に初登場するのが54歳の時。54歳以前 はどこで何してたかまったくわからないという、きわめて アヤシイ人です。中年以降にいきなり宮廷に入るなんて...尋常 じゃないですよー。いくらでも話を作れるといえば作れるみたいだけど、 陰陽寮の名簿にもないから、朝廷にはいなかったはず...
 えー、父は安倍ますきという人らしく(他に複数説あり)、母は白キツネ?、 出生は不明といった方がよさそう。
 晴明は著書「占事略決」をみると、漢文を自由にあやつる、 頭のいい人であることがわかるそうです。五行相克などの占いを、 中国の元もとの五行思想にあわせて解説している本です。

 晴明がよくでてくるのは、何と言っても藤原道長の御堂関白記。 まー今日は**の方角が悪くてそれはどーの、物忌みがどーの、...で、よく占いとか 祈祷とかに呼ばれているのです。晴明は国家公務員なのに、 道長ほとんど私用でこきつかってます...いや、もしかして 政府高官の吉凶占いは公務なのか?

 さて、晴明は、陰陽師の賀茂忠行・保憲(919-977)親子の弟子で、 保憲は子の賀茂光栄(939-1015)に暦道、 晴明に陰陽道を伝授します。これはただ教えたのではなく、 一子相伝に近い扱いに、暦道を賀茂家、天文道(陰陽道の中の転変地異による 占い部分)を安倍家が、それぞれ独占としたのです。
 なぜ、賀茂保憲はこんなことを考えたのか...いや、朝廷の意向か... 陰陽寮は極秘事項を扱う部署なので、公式記録は?で、もう真実は 知る由もありませんが。
 賀茂忠行に見出された晴明は、保憲の愛弟子..とゆーか年齢的に兄弟のように 育ったと思われます。こんだけ年齢が近いのに、あの頭のいい晴明が 師といってるんだから、 保憲ってすごい人。なにか、考えるところがあったのでしょう。


■賀茂光栄(939-1015)
 大江匡房様の「続本朝往生伝」の記述によると、賀茂光栄は、晴明と並び賞される名陰陽師。暦道をついだ人。
 賀茂光栄は、晴明の18歳下ですから、子どもみたいなもの。 御堂関白記には、晴明と光栄を両方呼び寄せてなにやら占ってもらって る話があるので、2人はよくいっしょに仕事をしてたと思われます。
 しかし光栄くんの仕事、いったい何だったのでしょう?暦を作ったという 話はないけど、占いで 呼ばれたという記述は多い。また役職は右京大夫などやってて、陰陽寮に いない時期もある。それに、陰陽寮には、彼と別に暦博士や暦生が いるのである....

 晴明と保憲はすごーく仲よかったのは知られてますが、光栄と 晴明は?いっしょに仕事をした記録は多い。しかし、口ゲンカを してたとかいう記録もあるので、仲はよかったのか悪かったのか?

 この光栄くん、今かなりたくさんある安倍晴明ものの小説、まんが、 TVドラマでは、悲惨な役柄が多いのですが....ええ、晴明に嫉妬して 意地悪するとゆー....18歳も下なのに??な、なんか気の毒...
 でも、もし賀茂保憲が、アナタを暦道の後継者に選んだのなら、 アナタの方が優秀だとふんだから...!だと思うのよ。晴明様が優秀じゃない わけじゃないでしょうけど、たぶん向き不向きが...()。
 だって、明らかに 暦道が陰陽寮の仕事で、一番難しいのだもの。暦道は暦を作る。これから先の、太陽の 道、月の満ち欠け、その結果は占いと違い、明快に正誤の答えが出てしまう。

 賀茂光栄は、従四位上という高い位をもらい、陰陽博士、 右京権大夫などを務めます。 しかし賀茂家は、光栄くんのあと、匹敵する逸材が出ずに、だんだんと没落 傾向になるみたいです。


■暦道
 この項はデアル体で失礼します。
 地球は太陽の周りを265.2422日で回る。月は地球の周りを27.3日で回る けれど、公転が加わるため、満ち欠けの周期は29.53日となる。月の 満ち欠けの周期が当時の1ヶ月なのだけれど、ハンパの0.53日はどうする? それは、大の月(30日)、小の月(29日)を組みあわせて、あわせる。 しかしそれでも1年365.2422日は、きっちりと12ヶ月にならない。 13ヶ月にもならない。その中間である。1年は何ヶ月にすればいいのか? それは、基本が12ヶ月、時々閏(うるう)月を入れて13ヶ月とする。

 この太陰太陽暦の閏月の入れ方こそが、古代文明の頭脳比べである。 最終的には、カルデア(新バビロニア)、古代中国が算出した19年7潤法が ベストなのだが、他の文明はとてもそこまではたどりつかない。

 さすがに中世ともなれば、西洋でも中国でも日本でも、19年7潤法を上回る暦を 作っている。当時の日本の宣明暦は1年=365.2426日、1朔望月=29.5306日。 唐で作られた、実に見事な暦である。この理論もばっちり伝わって いるのだが...当時電卓はもちろんない。紙と筆があるだけである。 掛け算、割り算ができない。つまり掛け算はぼーだいな足し算で、 割り算はぼーだいな引き算で、まかなうしかない。
 これが暦道の基本中の基本、暦作りなのである。

 次は基本その2、5惑星の位置。惑星の位置予報は当時必要ない。 毎日観測して記録すればよかった。しかし、ある程度基本をしっていない と、観測も不正確になる。望遠鏡がないので、惑星の同定は 肉眼である。太白(金星)が太陽の周辺にしか見えないことくらいは 知ってないと、記録からして?ものになる。

 次は応用...というか、これも必須のことなので基本かな。しかし 難易度がすごく高い。日食予報である。
 困ったことに、月の軌道は離心率の高い楕円である。新月から 新月まで29.53日とはならない。29.3〜29.8くらいまではばらつく。 このバラつきのため十五夜は実はなかなか満月にならない。
 またさらに困ったことに、 月の軌道は、太陽の軌道に正確には重ならない。5度ほど傾いている。 (もっとも、 この傾きがなければ、新月のたびに毎回日食になってしまうのだが。)
 太陽軌道と月軌道が交わるところで、たまたま新月になると、 日食である.....であるが、見かけの月のサイズと太陽のサイズが ほとんど同じであるため、日食というのは、地球上の ほんの狭い場所でしか見えない。

 月食も予報は似た理論で、太陽軌道と月軌道の交点で満月になる 時に起こる。ただし地球上ならどこでも見えるので、日食ほど 予報が微妙にはならないのだ。

 実はさらにめんどうごとがある。太陽軌道と月軌道の交点は、星座上の 同じ場所にはない。毎年動いて いる。約17年で一周してもとにもどる...。この太陽軌道と月軌道の交点 のことを密教では羅劫というのだ。
  .....まあその、この よーな複雑怪奇な計算をするのである、暦道は。
 できるか?晴明!


■安倍家と賀茂家
 安倍家と賀茂家の独占後、宮廷の陰陽道と暦道は、秘伝色が 強くなり、競争もないので、 あんまり進歩しなくなってしまいました。宣明暦はたしかにいい暦 だけど、そのまんま改定もせずに800年も使ってたら、いくら なんでもずれますって!
 一方、民間にこっそりと広まった 民間陰陽道は、鎌倉幕府にとりいれられ、戦国大名にも受けて、 ひろがっていきます。地方各地で作られた民間暦。その計算方法は いずれも「ヒミツ」でした。

 安倍家はまあ占い部分だから、もともと陰陽寮の勘文はヒミツだったし、 独占でも別にいいんですが、問題はほんまもんの公務の暦作りをする賀茂家です。
 暦道は、室町時代1565年に勘解由小路家(賀茂家が改名)が断絶 してしまい、しょうがないので 土御門(安倍家が改名した)家が暦道を兼任しますが.... いきなり難しい旧暦計算...まして日食計算はうまくいかなかった みたいです。
 土御門家が暦道兼任後、宮廷の暦はかなり怪しく、日食・月食 の予報もはずれてしまって、かなりまずかったようです。

 で、結局、徳川幕府ができたあとの1616年、事態を深刻に 受け止めたらしい徳川家康は、賀茂家の分家である幸徳井家に 暦作りを委託。以降無事に暦が作られるようになったそうです。


■朝廷以外の暦
 朝廷の暦以外の暦が、 初めて民間で使用されたのは鎌倉時代です。 またその頃、それまで書き写しだけだった 暦が、初めて印刷されたものが出回りました。

 その鎌倉の、東国政権の暦は、「三島暦」といいます。伊豆の三島大社の 関係者である河合家が、暦編纂の業務を江戸時代まで行って いました。

■暦を配るには....増やさにゃあかん!
大きくなるよ  イサト「何やってんのかって?見りゃわかるだろ。 ちゃうちゃう!歌なんか作ってないって!! 何わからん?暦を書き写してるんだよ。この時代、印刷機も コピー機もないだからな。公式暦は陰陽寮が発行したやつを、 せっせと弁官や社寺で俺たち下っ端が書き写して増やすわけ。 よくサラサラ書けるって。暦って1年354日(旧暦小の年) あるんだぞ。この長文いくつも書いてりゃ、頼まなくたって うまくなるって。」

 「いつもの僧兵の制服はどうしたのかって?ちょっとしばらく 私服でアレはやめることにしたんだ。今オレが着てるのも 僧侶の正式な衣装なんだぜ。いわゆる作業服にあたる作務衣と、 上に着てる羽織みたいのが十徳っていうんだ。振袖級に袖が 長いから、書き物の時ははしょっといた方がいいぜ。」 (純白の作務衣は...あんまし無いが、ははは僧兵の特権とゆーことで)

「でさ、このあいだ僧兵の服で町を歩いてたら、こともあろーに 極悪の強訴ばっかやってるK福寺(ん?伏字になってないか。まいい や)の僧兵をまちがわれちゃってさ。同じ宗派だけど、 ぜんぜんちがうっていってんのに、いきなり衛門府に連行だぜ。 外見だけで十把一絡げにするんじゃないっつーの! これだからお役人はいやだっていうんだ。」

 「オレを連行してどーする、バカか!お前らのボス(もちろん別当殿だ) を出せって言ったら、バカかとぬかしやがる。それなら、京職の 平勝真を出せといったら、たしかに勝真殿は京職だが、今右京にいる からとてもじゃないが呼んでこれないとかいいやがる。 頼忠は蔵人だから白河だし、実はマジ困ったんだけど、 そしたら笑いながら、だれかが内裏の方から走ってくるわけ。 よくみると彰紋じゃん。で、無事放免されたんだけど、 考えてみりゃアイツが一番大物だった。
 で、さらさらとその場で書いてくれたよ、「この者は南部寺の 僧兵見習で怪しいものではないことをここに記す」という、 すごい東宮宣を!アイツこの調子で、バンバンへんてこな 東宮宣だすんだけどさ、 それが全部後代に伝わったら、ゼッタイ変人宮様にされちゃうぞ。
 何、友情なんだからありがたく思えって。オレは心配して るんだよ!ん、貴族はきらいなんじゃないのかって? ....あーもー、うるせーー!見ろ、失敗したじゃないか!もーっ」


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