■源平の合戦のメンバー
平安時代末期、西暦1180-1185、有名な源平の合戦が全国的に行われました。
両軍陣営の主なメンバーをご紹介しましょう。色わけで平氏,源氏。
★平家側
平清盛--源平合戦時、既に故人。「平氏でなければ人でない」と本当に言ったかどうかは不明。元々は民衆にも部下にも人気の高い名将、これ本当。
平忠度--薩摩守。一の谷戦の大将、清盛の弟。和歌の名手で、優れた武人でもある。
平重盛--清盛の長男で文武にすぐれ、争いの調停につくした名参謀。武士、貴族両方に人望があったが、若くして死ぬ。
平宗盛--清盛の次男で重盛の死後、棟梁となる。ご存知無能の将の代表。地方伝説も名誉挽回の逸話ナシ..
平清宗--宗盛の子、その評判の悪さは父に劣らない。
平知盛--清盛の四男、軍師。悪い戦況を知りつつ戦いに臨んだ名将として知られる。
平敦盛--笛の名手で16歳で戦死したため詳細は不明。能に歌舞伎に地方伝説に、悲劇の武人としてひっぱりだこ。
平教継--平家屈指の猛将、能登殿。屋島の戦いでの義経の相手。
※もちろん全員平氏(桓武平氏)であります。
★源氏側
源頼朝--源氏の棟梁。戦は出ると負け、しかし東国の武家は全面的に彼を支持した。
源義経--日本史きっての名軍師。腕っぷしも強い。戦場では仲間の信頼も厚いのだが、なぜか平和な時の評判が...
源義仲--北陸に逃げ延びた、義経たちの従兄弟。頼朝に人質?にとられた息子の義高、
盟友今井兼平、その妹の今井巴(巴御前)...数々のエピソードを持つ木曾の英雄。
畠山重忠--武士の鏡、青海のヒゲのおいちゃんは、美形キャラより大プッシュの坂東武者です。最初は義理から平氏につき、後に源氏方になり、同僚から慕われ源氏軍をまとめました。桓武平氏。
千葉常胤--下房総最大の豪族で、彼が敗走中の頼朝を支持したため、関東東半分のぶけが頼朝に従うことになった。妙見信仰の相馬氏の流れで、桓武平氏。
三浦義村--千葉氏と並ぶ関東の大豪族で三浦水軍総帥。千葉氏同様、頼朝についた
ため、あっというまに関東統一。有力豪族を次々葬った北条時政が最後まで
手を出せなかった人で、関東武家の信頼は厚い。桓武平氏。
和田義盛--三浦氏の一派で、後、源実朝の側近となる豪胆な武人。東国政権の
初代侍所別当。桓武平氏
梶原景時--京在住歴の長い武蔵の武人、最初は平家方だったが、敗走中の頼朝に何かをたくし、見逃す。
後に源氏方になるが
評価は真っ二つ。裏切り者か、雅なる趣の武者か。ここでは後者をとります。桓武平氏。
大庭景親--石橋山の戦いで頼朝を破った平家の大将だが、最終的には源氏方につく。
桓武平氏。
北条時政--北条氏だけは関東ではなく、伊豆の豪族。桓武平氏の流れとされている。
時政...このトホホな男については後述。
比企能員--伊豆時代からの頼朝の盟友。桓武平氏。
佐々木盛綱--珍しい村上源氏の近江源氏。藤戸の戦いでの海を渡る逸話は有名。千葉出身らしいが後越後にいく。
※佐々木氏以外は、みごとに全員平氏です。この他にも坂東八平氏の秩父氏、長尾氏も
平氏です。長尾氏は後越後におもむき、あの長尾影虎(上杉謙信)の祖となります。
つまり、どーみても、源平の合戦の内容って西日本の平氏vs東日本の平氏
なんです。
源平の合戦の理由の、平氏と上皇によって全滅させられた京の清和源氏のウラミなんて、
ただの大義名分。そもそも源氏方に、源氏はいない。
源平の合戦、特に、京都−壇ノ浦の最終戦は、関東の兼業武士たちが、
京都勢=事実上の日本の支配者たちにいどんだ戦いなのです。
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