Hosidukuyo --Kamakura Story--

源氏と鎌倉

星月夜・鎌倉のものがたり その1

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MOKUJI
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 京から遠く離れた、鎌倉に誕生した地方政権の物語。
 彼らがその時守り抜いたものは、数百の年月をへて、 今も守られている。鎌倉街道の名が、関東から 消える日までは。


 大河ドラマのBAKA〜〜!!私は今、ものすごく忙しいんだってばー
 しかあし、こう来訪者が多いのでは〜
 2年間ほっぽっておいたこのページ、あまりに間違いだらけなので
 改定せざるをえないではないすか。
 というわけで、「東華・星月夜」は、
 「星月夜・鎌倉のものがたり」として新装開店いたします。
 (みためはあまり変わってないのですが)
 地方史料をもとに描く、東国政権の物語です。ノンフィクション。




■源平の合戦の背景
 源氏と平氏のいさかいは、源平の戦いが始まったとされる 1180年より少し前の、京の内乱に始まります。
 京都を血で染めた2つの戦い。 天皇・藤原家・源氏平氏の親子兄弟たちの権力争いの戦争、 1156保元の乱。身内どうしの戦いが中心で、結果上皇が 島に流されるという、歴史始まって以来の展開。
 そのあと藤原信西・平清盛らに、藤原信頼・源義朝が 反乱を起こした1159平治の乱

 勝った平清盛一族は、後白河法皇に気に入られ、太政官となるやいなや、 あっという間に太政大臣ら要職をとり、天皇と姻戚関係になり、 栄華を極めました。 一方負けた義朝一族は、天皇が清盛についた ために賊軍となり、ほぼ全員が殺されましたが、当時13歳だった 源頼朝(と1歳の義経)は、温情で命を助けられました。

  最初は頭のいい武士だと思っていた清盛が、なにやら王様の ようにふるまいだすと、貴族たちはいい気持ちはしませんので、 とうとう、1177年後白河法皇の鹿ケ谷事件などもおき、貴族のみならず 地方の武士たちも、清盛一派への反感を強くしていきました。
 1180年、以仁親王・源頼政が挙兵、それとともに 地方の源氏・平氏も戦いを開始、源平の戦いが始まったのです。



■源平の合戦のメンバー
 平安時代末期、西暦1180-1185、有名な源平の合戦が全国的に行われました。
 両軍陣営の主なメンバーをご紹介しましょう。色わけで平氏,源氏
★平家側
 平清盛--源平合戦時、既に故人。「平氏でなければ人でない」と本当に言ったかどうかは不明。元々は民衆にも部下にも人気の高い名将、これ本当。
 平忠度--薩摩守。一の谷戦の大将、清盛の弟。和歌の名手で、優れた武人でもある。
 平重盛--清盛の長男で文武にすぐれ、争いの調停につくした名参謀。武士、貴族両方に人望があったが、若くして死ぬ。
 平宗盛--清盛の次男で重盛の死後、棟梁となる。ご存知無能の将の代表。地方伝説も名誉挽回の逸話ナシ..
 平清宗--宗盛の子、その評判の悪さは父に劣らない。
 平知盛--清盛の四男、軍師。悪い戦況を知りつつ戦いに臨んだ名将として知られる。
 平敦盛--笛の名手で16歳で戦死したため詳細は不明。能に歌舞伎に地方伝説に、悲劇の武人としてひっぱりだこ。
 平教継--平家屈指の猛将、能登殿。屋島の戦いでの義経の相手。
  ※もちろん全員平氏(桓武平氏)であります。

★源氏側
 源頼朝--源氏の棟梁。戦は出ると負け、しかし東国の武家は全面的に彼を支持した。
 源義経--日本史きっての名軍師。腕っぷしも強い。戦場では仲間の信頼も厚いのだが、なぜか平和な時の評判が...
 源義仲--北陸に逃げ延びた、義経たちの従兄弟。頼朝に人質?にとられた息子の義高、 盟友今井兼平、その妹の今井巴(巴御前)...数々のエピソードを持つ木曾の英雄。
 畠山重忠--武士の鏡、青海のヒゲのおいちゃんは、美形キャラより大プッシュの坂東武者です。最初は義理から平氏につき、後に源氏方になり、同僚から慕われ源氏軍をまとめました。桓武平氏。
 千葉常胤--下房総最大の豪族で、彼が敗走中の頼朝を支持したため、関東東半分のぶけが頼朝に従うことになった。妙見信仰の相馬氏の流れで、桓武平氏。
 三浦義村--千葉氏と並ぶ関東の大豪族で三浦水軍総帥。千葉氏同様、頼朝についた ため、あっというまに関東統一。有力豪族を次々葬った北条時政が最後まで 手を出せなかった人で、関東武家の信頼は厚い。桓武平氏。
 和田義盛--三浦氏の一派で、後、源実朝の側近となる豪胆な武人。東国政権の 初代侍所別当。桓武平氏
 梶原景時--京在住歴の長い武蔵の武人、最初は平家方だったが、敗走中の頼朝に何かをたくし、見逃す。 後に源氏方になるが 評価は真っ二つ。裏切り者か、雅なる趣の武者か。ここでは後者をとります。桓武平氏。
 大庭景親--石橋山の戦いで頼朝を破った平家の大将だが、最終的には源氏方につく。 桓武平氏。
 北条時政--北条氏だけは関東ではなく、伊豆の豪族。桓武平氏の流れとされている。 時政...このトホホな男については後述。
 比企能員--伊豆時代からの頼朝の盟友。桓武平氏。
 佐々木盛綱--珍しい村上源氏の近江源氏。藤戸の戦いでの海を渡る逸話は有名。千葉出身らしいが後越後にいく。
 ※佐々木氏以外は、みごとに全員平氏です。この他にも坂東八平氏の秩父氏、長尾氏も 平氏です。長尾氏は後越後におもむき、あの長尾影虎(上杉謙信)の祖となります。

 つまり、どーみても、源平の合戦の内容って西日本の平氏vs東日本の平氏 なんです。 源平の合戦の理由の、平氏と上皇によって全滅させられた京の清和源氏のウラミなんて、 ただの大義名分。そもそも源氏方に、源氏はいない。
 源平の合戦、特に、京都−壇ノ浦の最終戦は、関東の兼業武士たちが、 京都勢=事実上の日本の支配者たちにいどんだ戦いなのです。


■源平の合戦そのご
>  戦乱が続く中、1185年、平氏の象徴たる京都の清盛一派が、義経らによって滅ぼされ、 残党も徹底的に追われ、 源氏の勝利で源平の戦いが終わったかのようにみえます。

 しかし、源平の戦いはそう単純ではありません。何しろ、いわゆる源氏方、源頼朝・義経連合軍に従った 豪族や武家は、北条時政、武田有義、千葉常胤、三浦義澄、比企能員、 和田義盛、梶原景時、佐々木盛綱、 畠山重忠...うーむ皆それぞれHPがあるくらい、エピソード豊富な皆さんだ.... 彼ら全員、平氏(桓武平氏)なのですから。
 このメンバーがだいたい鎌倉政権の設立メンバー(初代御家人)ですから、 そのころは、義経も義仲もいないわけですから、よりいっそう平氏ばっかりに なっており...というか、将軍頼朝以外、全員平氏でありますので、 これを源氏の政権とよぶのは、かなり違和感があります。

 これら桓武平氏系の武士団は、箱根よりこっちでは、あらゆる史跡にかかわっており、 なじみ深い武将たちです。ゆかりの地、社寺、景勝地も多いです。 たとえ国司であっても、平安貴族にまつわる史跡やエピソードはめったになく、 地方史料って 民衆が何を支持していたのかがホントよくわかりますワ。
 ちなみに、大鏡や平家物語でさんざんに書かれている入道・平清盛が、 若いころは民衆と部下の命を守るのに尽力したいい人だったことを 最近ようやく立証したのは、地方に残る小さな伝承やエピソードたちなのです。

なぜ関東の平氏は皆そろって、 平氏の宿敵のような源氏方についたのか?
 これ、なぜもなんもありません、あたりまえじゃ。関東からみれば、朝廷にしろ 京の貴族にしろ、年貢だけとって何ひとつ役に立つことしませんからね。
 国司は税金をとるだけ、凶作の時は自分たちの米だけ確保して 門をとざすし(凶作のとき農民の援助をしたのは地方豪族、 民衆に人気がある理由もわかるでしょ)。 警察もないから、相模や上総では地方検非違使を勝手に作ったし。 そもそも、院政時代、「箱根のむこうの、自分の荘園の民は どのような暮らしをしているであろうか」なんて、公式記録はもちろん、 貴族の日記にすら、ひとことも出てこない。
 はっきりいって、後期平安朝は国家ではありません。 ただ、関東のみんなは、まともな地方政府がほしかっただけなのです。

 頼朝は最後まで幕府を名乗らりませんでした。鎌倉の東国政権に、朝廷にたてをつく 意思など、かけらもなかったのです。あの時、1221年の承久の乱までは。



■源義家(1039-1106)
 頼忠さんの大事なヒト、源氏の統領・源義家(もち八幡太郎義家のこと。 箱根よりこっちでは英雄、むこうでは1武士のヒト)。 武家の神様として、教科書にもでてきたりする。 調べれば調べるほど、えらい人。この時代にこんな人がいたなんて。 世間の評判よりも、ずっとずっと、すごい人だと思う。
 さて、義家が活躍したのは、 鎌倉時代の100年前も前である。

 源義家は、東国・鎌倉に生まれ、鎌倉に育った。 義家伝説各種は、主に京都が舞台なのだが、 義家が東国の暮らしを、人々の心をよく知っていたことが、 この人の人気の基盤となる。
 義家は、父義朝についていった前九年の役のあと、 1083-87にかけて、 朝廷の命により陸奥守となり大荒れの東北(後三年の役)を平定する。

 後三年の役は、かなり複雑で、義家はそうとう苦戦したが、 時間をかけても、 あくまで民意をかなえる形で東北を統一した。そう、この形で 治めない限り、再び戦乱となるよね。 (同じ理由で幸鷹さん、あんたもえらい)。

 これを簡単にいえば、地元豪族で 民衆も支持していた安倍氏を滅ぼした(前九年の役) 出羽の豪族・清原氏の内戦を鎮圧し、東北全土を統一し、安倍氏(本来の 姓である藤原に改名)を復権させるウルトラCを やってのけたので、民衆の人気バクハツ状態だった。 これが後三年の役である。けして楽勝したわけではない。 沼柵の戦いでは、東北の寒さと雪と食料不足で、兵が死にかけたので 撤退。朝廷は援軍をださなかったので、しょーがないから弟・義光が なんと朝廷を辞職して(涙)救援にむかい、翌年なんとかかんとか 東北を平定した。
 しかし、朝廷(=白河院)はこの陸奥守として行った東北平定を、 「義家が個人的にやった戦争」 として、褒章をださなかったのである!! しんじらんない! これだから、箱根よりこっちの人間は、京の政治家がきらい なのよ。
 さて義家はといえば、自分の財産から、 部下や協力してくれた武将たちに褒美をだしたという。 さすが....。高くついた?いいえ!この時3年間の、義家の 行動は、鎌倉政権成立の原動力となるのである。
 とにかく民衆に慕われた義家には、関東から東北の 地主が、いっぱい土地を寄付してきたので、 もしや黒字だったのでは....

 このフィーバーぶりを恐れた朝廷は、義家への 土地の寄進を禁止した。そして陸奥守を解任...! 義家は文句ひとついわず、 京にもどるが、義家の人気を恐れる白河院は、 殿上すらさせない。それでも義家は最後まで白河院に 忠義をつくすのであります....あのねえジイさん!!

 ..失礼いたしました()。えー、義家が伝説になっちゃうのは、 こういった褒章関連の苦情をけしていわないことからなのだ。
 それどころか、白河法皇が毎晩幽霊に悩んで眠れない (ぶわっははははは!最高だ、これ考えた人!悟り開いて るんじゃないの?法王!それに幽霊って、いったいだれ?? 白河恨んでる人っていったら、鳥羽上皇でしょ、輔仁親王 でしょ、藤原忠実でしょ...有名人だけでも数えきれなーい!) ときくと、義家は自分の弓を枕もとに置いてさしあげたりするわけ。 そのとたん、幽霊はでなくなって、白河院は安眠できたそうよ。 (これが聖なる弓。勝真くんのところで解説予定。) さらに、不遇の鳥羽上皇のところにも、悪霊がでたときいて 義家がやってくると、なんと悪霊は、義家が名乗っただけで 退散しちゃったという話もある。おいおい。
 悪霊にされちゃった将門に比べ、なんか義家ってすごい... (だから遥か2時の源氏の棟梁がすっごく気になるワタシ^^;)

 ふと思ったのですが、承久の乱の時に義家がいたらどうなった だろう。彼はあくまで上皇の部下、京都防衛のために戦った だろう。いやだけど鎌倉方もキミの首をはねると思うよ。

 この人が「源氏」のネームバリューのモトでありまして、関東は 桓武平氏一派の方が多いのですが、やっぱ将軍は源氏がいいな。 となるみたい。平氏は、清盛一派がイメージを格段に下げて しまった感もあるのですが。

■源頼光(948-1021)
 みなもとのよりみつ、通称「ライコウ様」。京、および中部地方では、 有名なヒーローですが、それ以外ではちょっとなじみが薄い。でも 今年(2002)はリバイバルだよね、ライコーさん。何さっぱりわからない? それはプレステ2のゲーム「かまいたちの夜2」で。思い出しましたか、 あの土蜘蛛の大群(^^;)。あれを切ったボロ刀がライコーさんの剣でしたよね。

 頼光は清和源氏、美濃の源氏の祖先です。京で活躍し、左馬寮権督、内蔵頭など をつとめ、藤原道長の警護もしていました。 でもそれよりも有名なのは、2つの伝説。1つは、頼光四天王 をつれての「大江山の酒天童子退治」、もう1つが「葛城山の土蜘蛛退治」。 ともに「御伽草子」の物語で、能・神楽等の作品などでとりあげられています。

[酒天童子]
一条天皇の時代、丹波の大江山に、酒呑童子という大鬼がいて、京におりてきては。 財宝や貴族の姫をさらっていく、 と京の都ではふるえあがっていた。帝の依頼により、 源頼光は、碓井貞光・卜部季武・渡辺綱・坂田金時の4名 (+1で、藤原家の家司の藤原保昌958-1036が入っている場合あり。)をつれ、 岩清水八幡、住吉明神、熊野権現に祈願をし、山伏のかっこうで 大江山に出発した。
 山につくと、祈願した3社の神らしい3人の男から「鬼に飲ませると眠ってしまう」 という不思議な酒をもらい、さらに上ると美しい女性が川で洗濯をしていた。 その女性に案内してもらい鬼の岩屋につき、 門番に道に迷ったふりをしていれてもらったところ、中にその鬼がいた。
 ざんばら髪、目玉は青く、鼻高く、赤肌という鬼の容貌の記述をみれば、まさに 西洋人である。あーやばい伝説だ()。
 さて見上げる大男の酒天童子にすすめられ、頼光一行は少し酒を飲んだところで 例の酒をふるまった。酒天童子と部下の鬼たちは、はたいそううまい酒だ とがぶがぶ飲んで寝てしまった。頼光たちは、隠しておいた刀やヨロイをだすと、 酒天童子のクビを切り、他の部下たちもやっつけて酒天童子の首をもって都に 帰った。

 この酒天童子伝説は奥が深い。とてもここで述べられる量ではないので、 さわりだけ紹介します。
 この時、頼光に同行した武者頼光四天王は、頼光と同じく実在の人物にして、 それぞれが独立して物語をもつくらいの有名人である。
 鬼の手を切る話で知られる渡辺綱(953-1025)、 足柄山の金太郎伝説の坂田金時、「今昔物語」産女では主演する卜部季武、滝夜叉姫 退治の物語がある碓井貞光(954-1021)。

 渡辺綱は、主演している京の鬼退治伝説の方が有名だ。朱雀大路の南はじ、羅生門 に鬼が出るという騒ぎがおき、帝は源頼光に退治を依頼した。頼光が鬼退治役に選んだのが渡辺綱。夜羅生門にいき、鬼と対戦し、綱は その右腕を切り落とした。後日、綱のおばに化けた鬼が、腕を取り返していったという。 羅生門の鬼は、茨木童子。茨木童子は、筑波山の髪結い店の前に捨てられて、店で育てら れた髪結い師です。髪結い屋をやっているうちに血の味を覚え、自分の姿をみて鬼と知り、行方をくらましたという、ちょっと悲しい物語をもっています。
 また綱の鬼退治にはもう1種類あって、一条戻り橋に出る鬼で、女性にばけて 綱の馬にのせてもらい、そのあと正体を現したら綱に腕を切られ逃げていったという ものです。この鬼は愛宕山の鬼だそうです。

 坂田金時は、本名は酒田公時のようです。実在の人物らしいのですが生没年不明。 唯一年代が記録されている、岡山県勝央の伝説では、金時くんは神奈川と静岡の境にある 金時山に住んでおり、21歳の時に源頼光の部下となり、頼光の九州遠征に ついていって、途中の岡山で熱病にかかり、55歳の生涯を終えた、とあります。
 何しろ金時くんは、四天王中唯一妖怪の血をひくものなのです。神奈川の足柄山に 酒田という豪族領があり、そこの八重桐姫の子が金太郎らしいのですが、 他の地方の伝説では、八重桐は「山姥」になってます。金太郎は山姥の子なのです。 金太郎伝説があるのは、 長野県、富山県、宮城県、京都府、滋賀県.etc、全国区です。
 いずれも偶然に源頼光に見出され、部下となり、生涯、頼光に従ったことに なっています。

 卜部季武は、今昔物語に、源頼光の本拠地・美濃での産女の物語があります。 美濃のある川に産女がでるということで、卜部季武がみにいくというと、仲間は いかに武勇の季武でもムリだろうという。では、と季部は馬で川をわたり、 向こう岸に証拠の矢をたて戻ると、川の中ほどで産女がでた。子を抱いてくれという。 季武は大胆にも子を受け取り、また川を渡り始めた。すると産女が、子をかえせと 追ってくるが、そのまま仲間のところに帰った。みると、子どもは木の葉になった という。

 碓井貞光は長野、碓氷峠の美ヶ原の豪族。貞光は幼少より力持ちで知られ、 源氏には力ためしの岩も残っている。また近所の四万温泉は、貞光が夢で童子に 「四万の病を治す温泉をさずける」といわれ、朝おきたら温泉が沸いていた という言い伝えがあり、特に胃腸の病気にきくという。
 さて今昔物語の滝夜叉姫物語は次のとおり。
 平将門の娘ゆり姫は、源氏の滅亡を祈り(あとで作られた伝説だけに、復讐の 相手が違う。将門追討を行ったのは朝廷であり、源氏ではない)、 筑波権現様に願をかけ鬼女となる。
 百合姫は、葛城山で土蜘蛛を討ち取ったという蜘蛛切丸を、京都の頼光の 蔵から盗み出すが、その責任をとって蜘蛛切丸をさがしもとめていた卜部末武は、 妻姫松や碓井貞光の助けをかり、苦労の末なんとか姫を討ち取り刀をとりもどす。

 しかしこの滝夜叉姫物語、別バージョンでは、将門の娘は五月姫となっていて、 千葉の山にこもるのは同じだが、退治に向かうのが大宅光圀だったりする。 さらに東北に伝わる別バージョンでは、五月姫が滝夜叉姫であるのは同じだが、 父平将門は民衆の英雄という表現になっていて、姫は5人の家来とともに おちのび、そこで暮らして村の祖先となったという話になっている。 いいねえこれ!がんばれ!滝夜叉姫の怪しい東北バージョン!。 西国ではカンペキに悪の怨霊にされちゃってる将門公の名誉?は、箱根よりこっちで 地道に回復する以外に、しょうがないからね。


■保元・平治の乱(1056,1159)
 1156年。院と帝の憎み合いは頂点に達し、 藤原氏(もちろん騒動を起こすんだから北家だ)の跡目 争いもからんで、とうとう、上皇VS帝という戦争が おきてしまった。これが保元の乱である。

 治天の君・鳥羽上皇の死後、後白河天皇VS崇徳上皇 の権力争いと、藤原忠道と頼長兄弟の争いが重な ったのが保元の乱の原因とされるが、 源氏平氏も巻き込み、それぞれが 家族で敵味方に分かれて戦ったという、空前にして絶後では ないかという、とんでもない戦争だった。
 京都が戦場となった初めての戦争・保元の乱は、 帝側が白河を奇襲し炎上させ、勝利をおさめた。

 源頼朝と義経の生家である河内の清和源氏は、 北面の武士として上皇に仕えてきたが、ここでは 崇徳上皇(と藤原頼長)を裏切り、平清盛とともに 後白河天皇(と藤原忠道)側で戦った。
 しかし、後白河天皇(すぐ上皇になる)は、東国に勢力がある 源氏を恐れたためか、次第に源氏を冷遇しはじめ、 伊勢の桓武平氏ばかり昇進するようになる。

 そのため、頼朝の父・源義朝は平清盛の留守中(ちょっと 情けない^^;)に、 後白河上皇に対し反乱を起こすが、 戻ってきた清盛に鎮圧される。
 主への反逆、重罪である。 源義朝ら河内の清和源氏は、後白河上皇の命で、 一族郎党、女も子供も全員殺され、全滅となる。 これが平治の乱である。

□ちょっとだけ、平清盛□
 この項目、1年くらい前に、平清盛の評判が、史実に反してあまりにひどすぎる ため、急遽増設した部分です。でも、今はこれ必要なさそう。 清盛だけはよくやったぞ大河ドラマ!清盛は本当にああいう人だったと 思うのです。(その他はおいておいて)
 私がこのページの資料の元にしているのは、中右記、名月記などの実務派の 日記および各県の地誌である。その次が続日本紀や吾妻鏡などの公の史書。 平家物語や義経記などの物語類は、まあ創作もので後の時代にたっぷり改変 されているので、参考程度。 また裏がとれない、単品の記述は採用しません。
 で、その星月夜式の調査によれば。年くったあとの清盛はさんざんだが、 壮年期以前の清盛は、当時めずらしい、民衆を大切にする王の中の王であったのです。

 清盛研究家によれば、若き日の平清盛は、礼儀正しく、温厚な人物である。 たしかに、そうでなければ、そもそも 朝廷の下級職につくことすらできなかったはず。武家がいきなり大納言や太政大臣には なれないのだ。また当時の公家の日記もそれを裏付けている。
 清盛は、つらいことも、 いやな仕事も、常に笑顔で請けたという。 部下を大切にし、地方官時代は領民が喜ぶ事業をするのが好きだった。古い寺社を愛し、 宮島を丁寧に修理・復興して、現在も残る美しい建造物に仕上げた。
 清盛は、京都に、史上初の貧民救済所を作った人物だ。また土木工事のさいの人柱を 廃止し、変わりに人形をうめこませた(当時の人柱による死者は膨大だった)。 清盛が行った土木工事などの事業を感謝する記念碑は、1000年の時をへて今も 各地に残っている...それはそれは、地味に。

 保元・平治の乱のころ、平清盛は30代後半。安芸守をへて京都に もどってきた若き武人で、立ち振る舞いも上品で、京都の公家に 評判がよかった。また安芸守時代に、通商で(国司のくせに、もう)がっぽり かせいでいたので、きまえもよかった。
 清盛は上皇や公家、なぜか万人に?気に入られて出世し、大納言となった。 しかし朝廷の中枢に 入った清盛は、人格が変わって「朝廷を手中におさめる」ことに全力を そそぐようになる。天皇家と婚姻をむすんで政権を安定させ、まるで「平家王朝」の ようなものを作った。何なんだこりゃ....というわけで、京の公家ばかりでなく 全国各地から反感をかってしまい、その後は教科書にのってるとおりの 評判の人間となってしまったのでありました。
-----以上、清盛伝ダイジェストでした。



 さて....
 1159年、かようにして全国に名をはせた北面の武士、京の清和源氏は壊滅した。
 しかし、源氏全滅からのがれた2人の子供がいた。13歳だった 源頼朝と1歳だった義経である。頼朝は平清盛が指揮していた 斬首の場で、そこにいた尼に助け られ、伊豆の北条氏らの管理下で流刑となる。一方義経は奥州で、 源義家が平定し王座に復帰したアノ平泉藤原氏により、平氏から かばわれて育てられる。

 このたった2人の河内源氏の生き残り。たった2人の天才により、 栄華を極めていた平家は都を追われ、西に追い詰められ、 滅ぼされる。歴史は小説よりもドラマチックである。 1180年に病没した平清盛は最後まで 命を助けてやった頼朝を呪っていたという。


■源義経(1059-1089)
 悲劇の武将、源義経。箱根よりこっちでは、歴史上でみると、 頼朝と義経はそれぞれ別の人気があり、どっこいである。 しかし、現在世間の人気はたぶん義経であろう。
 理由はもちろん、この人、特になーんにも悪いことしてないから。 唯一これはまずいってのは、朝廷のおだて(得意の懐柔策)に 思いっきりのって、朝廷の役職をもらって、どこにいくにも「判官」を 名乗ったこと。吾妻鏡に全文が記録されている名文「腰越状」をみると、 かなり、やばい...朝廷の役職的にヒラである頼朝に出す手紙を、 思いっきり京の役職名でかいてますから()。これじゃけんか売ってる みたいにみえますって。
 でも...義経の落ち度って探してもそれくらい...。人格者じゃなかった説も あることはあるが...うそだ。一癖も二癖もある武士団を まとめ、土地に詳しくないにもかかわらず、奇襲を成功させるなんて、 よほど部下の信頼をえてないと、できない。 まちがいなく、いい上司です、義経。
役職に喜んでるくらいで、これといって落ち度がないのに、源氏として、ものすごい功労者なのに、 兄頼朝からいじわるされ続け、命を ねらわれ続けるのである。 ...あーあ、「勧進帳」みたいに助けてあげたいよ。

 平家追討の数々の戦い中、よせあつめの源氏の軍は、軍師義経が 指揮しない限り、まるっきし動かなかった。また、戦術上も、 驚くべき奇襲の数々で、味方の被害を少なくしながら 平氏を追い詰めていった。最後の壇ノ浦戦では、平氏側も ようやく水軍の名将・知盛が立ち、本来の武家平氏の得意とする水軍で 決戦となります。瀬戸内海の海流を平家一派はよく知っている。 源氏は不利なんですが、伊予水軍と熊野水軍が源氏(とゆーか 義経だろう)につき、結果的に義経の作戦があたり、 平氏は、安徳天皇を道ずれに自ら滅びた。

 勲章ものの活躍なのに、何もしてない頼朝ときたら、 「海に沈んだ3種の神器をひろってこい!」。あのねえーー! 敵の大将・宗盛を鎌倉までひったてたら、鎌倉入り拒否! しょーがないので北条時政が捕虜をひきとる。き、気の毒に..
 そのあとも頼朝は、刺客を送るわ、義経に従わない ようにの文書をありったけ西の武家に送るわ、表から裏から 義経の命をねらい続ける。さすがに切れたらしい義経は、刺客 事件を公にし、時の後白河上皇から頼朝追討令をゲット。 さすがにこれには頼朝マッ青、正面きって対義経軍を (もちろん勝手に)出す。しかし畿内の豪族・武家がそろって 頼朝についてしまったので、今度は義経が追討されることに.... しかしまあ、世の情勢をみて今度は「義経追悼令」をだしちゃう 大風見鶏・後白河上皇。オマエがいちばんしょうもないぞ。

 なぜ、近畿の武家が、目の前にいる義経ではなく、箱根のむこうに いる頼朝についたのだろうか?しかも、上皇の「頼朝追悼令」をけってまで。
 これ、わかんない。たぶん、この時の義経は、何か明らかに問題が あったのだと思う。「戦闘時以外の義経」は、なぜか周囲に敵ばかり 作ってしまう...。戦争は連戦連敗だが、ただすわってるだけで、なぜか 周囲に人が集まってくる頼朝とは対照的。この2人が協力したら、どんなに 強いでしょう、なんて思うのは、こっちが赤の他人だからでしょう。
 かくも肉親の争いとは...まったくモウ。結局へりくつを 山のようにこねて、頼朝は義経および関連勢力(平泉)を 完全に葬った。

 頼朝が何もしなかった場合、政治にうとそうな義経が 頼朝に謀反なんか、ありえない。棟梁は頼朝なんだから。 でも、天才軍師・義経の人気はバクハツ したかもしれない。頼朝も、白河と同じもの....民衆や下級武士 の人気を恐れたのだ。

 もし、鎌倉の政府にキミがいてくれたら...って、思うよ。 義経。東北の輝ける星。キミが鎌倉にいたら、奥羽は だまっていても喜んで鎌倉に従っただろう。 静御前が鎌倉で、日々笑顔で舞ってくれたら。 この10年後に死ぬ頼朝に代わり、 次代将軍になってくれたら....!
 ...ハイ... わかってます、歴史にもしはないのよね。

 この件に関してだけは、頼朝アナタはばかだ。 義経は、アナタみたいな政治家じゃない。よく歴史家がいうような危険な対抗勢力 としての驚異より、同志となった場合の力の方が、 はるかに大きいと私は思う。

■源頼朝(1147-99)
 源義家のひ孫、義朝の子。名古屋生まれ。冷徹な棟梁といわれる 頼朝。吾妻鏡からしてそんなによくかいてないという...。(さすが かなり公平といわれる吾妻鏡^^;) この頼朝が、私は前記の義経よりも好き。
 ここ神奈川...相模では、義経よりも、頼朝の 人気の方が、おそらく、高い。特に歴史家には。 だって頼朝公は、 本当に朝廷の力を締め出した政府を、東国に作ってくれたの だもの。 それは、関東・東北の民の、長い、長い戦い、 長い、長い夢だったから。

 関東の武家・豪族とは、つまり地主。武士もやってる 兼業農家のよーなもの。
 1180年、源平の戦い前夜。関東一円の地元の豪族たちは、 見返りをもとめずして早々に頼朝についた。 それがまた、兵をあげたはいいが 大庭氏ら平氏軍にボッコボコに負けて逃げ出した、 かなりカッコ悪い時の頼朝に、である。

 三浦半島の豪族三浦氏は、 桓武平氏であるが、 最初っから源氏方につき、平氏系の豪族と戦った。 1180年、まだ平氏の世である。なぜだろう?
 三浦氏は東北平定の戦い、前9年の役、後3年の役、 両方参戦している。後3年の役....八幡太郎・源義家が自腹をきって 報償を出したやつ...これはまちがいなく、三浦氏は 義家信者であります。一応頼朝は義家の直系の子孫ですから、 助けてあげよう、という気にもなったのでしょう。
 でもそれだけの理由で、この一族の生死を左右する戦いに 参戦はしないでしょう。三浦氏も、地元の旗の下で 戦いたかったのだと思います。
 和田義盛、梶原景時なども三浦系である。

 さて三浦氏の助けで、千葉に逃げ込んだ頼朝・北条連合軍。 ..といっても、頼朝の従者は六人()。軍じゃないだろ.... 地元の有力豪族・千葉氏に使者を送る。すると 千葉氏は、すぐさま頼朝に従った。
 ここでもまた。大豪族の千葉氏が、平氏なのに、 伊豆の地理しか知らなそうな怪しい源氏方に従う...、なぜ??
 どうも三浦氏と同じ理由らしい。 よほど京都勢がきらいなのか?関東の 豪族のみなさん!(大笑い、昔から変んないなあ)

 えー、さて大豪族の三浦氏&千葉氏がついたとなると、もう話が全然ちがう。 あっというまに、関東一円の桓武平氏や地主豪族 が、源氏の名のもとに大集合。
 ホウホウのテイで小田原から逃げてきた敗軍の将・頼朝、 ただすわってただけで、1ヶ月くらいで 関東の全豪族をまとめる、 大軍のトップになってしまった! さらに実の弟・義経が育った東北の平泉まで味方となる。 「おかしい。話、うますぎないか...」と思ったんじゃないかな、 頼朝。

 いいんだよ、頼朝。関東の武家は、地主系豪族が多い。 その土地こそが自分の国、地域住民を守りながら、したたかに 生き抜いてきた。地方警察(地方の検非違使)を、早々に作った のは相模だし。彼らが、京の政権(平氏も貴族も上皇もいっしょやな) と戦うなら今だ、と決断したのだから。 まあ、打倒平氏なんて、頼朝以外だれも真面目に 思ってないわね、ハハハ

 さて、頼朝挙兵をきいて京から平維盛が やってきた。平氏は関東の武家を味方につけようと交渉するが、 うまくいかない。あたりまえだ!今まで地方には 警察もおかず税だけとる無法状態にして、 飢饉の援助も捨て置いてて、こんな時だけ 朝廷に協力しろってえ? 富士川の合戦は、大軍にびびる 平氏側が、水鳥の羽音を夜襲と間違え、勝手に逃走。前代未聞の 勝利となりました。頼朝、義経と仲良くご対面。

 戦い慣れしてない頼朝より経験のある、三浦氏、千葉氏、 畠山氏らは、ここで頼朝に重要アドバイスをする。 「京などどうでもよい。鎌倉に戻り、足場を固めるべきです」 よく言った。これを頼朝が飲んだのが、全てだった。

 以降は、戦いの天才・義経の独壇場。彼の育った東北と まったく違う気候、地形の京都〜瀬戸内を舞台に、 平氏をどんどん追い込んでいく。義経の戦は源氏の騎馬戦である。
 頼朝はあくまで、京にはいかない。政務の場所・侍所を設置し 整備する。そして地の果ての鎌倉に いながら、左か右かの近衛大将の任官をぶんどろうという、 戦いを始めていた。政治工作なんて考えもしない義経とちがって、 もーこのへん政治家だなあ、頼朝は。

 頼朝の伝記に、義経追討の話はあまりでてこない。 たしかに、彼は政治的な仕事をたくさんやっていて、義経事件は そのごく一部なのであるが...。

 20代の源氏軍総司令官、義経の活躍は、日本史上空前の みごとさである。源義仲のように、 軍が住民や寺の金品を略奪するようなこともない。
 頼朝の方が好きな私がみたって、義経への文句は すべて,へりくつである。自分の地位をおびやかす肉親への 憎しみ、ただそれだけだ。天皇家や藤原家では日常茶飯事 のことだけど、頼朝も同じなのか。やれやれである。
 義経追討にかこつけ、頼朝たちの最大の目標であったと思われる 守護・地頭という地方警察の設置がかなうのだが、 このためっていうのもへりくつだぞ..。義経事件については、 私は弁護の余地なしと思っている。

 1185年、史上初の農民と武士による政権・鎌倉幕府 (という名前じゃないけど)は、富士川より東を統治する政権として、 事実上成立する。1192年は、 頼朝が、事実の追認として征夷大将軍に任ぜられた年である。

 頼朝の死は、このわずか7年後。落馬がもととあるが、吾妻鏡にも、 詳細が書かれていない。そのため、北条時政による暗殺説とか、 でているのである。アノ、北条氏、それも時政、納得できちゃうなあ...
 早すぎた死。問題は、陰謀政略に長けた北条の血である...。 共に戦った重臣たちが、子ども達が、陰謀の炎の中に消える.... その中で政子は、苦難の舵取りを迫られる。 トホホ状態で(おそらく地獄から)鎌倉を見守る頼朝公が、 目に浮かびそうである。
 ま、われらが北条泰時が、第3代執権になるまでの辛抱だって。


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