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北条氏と鎌倉

星月夜・鎌倉のものがたり-2

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 木造の小さな都、鎌倉に政府があったなんて、
 言われたって信じられない。
 関東の兼業武家たちが、その政治力の全てをかけ、
 この国の主・「京」と戦った記録。




■北条時政(1132-1215)
時政は、北条政子の父。桓武平氏。伊豆の1豪族、それも勢力の 弱い豪族である。平氏側として、流刑中の源頼朝を監視していたが、 頼朝と娘の政子の結婚を認めたあとは、頼朝についた。

 初代執権、時政は、陰謀ならまかせとけ!の北条の名をとどろかせ、 次代義時は、それを思いっきり高めた方。 この大胆な陰謀の数々は、とても伊豆の弱小豪族とは思えない。

●梶原景時追放(1199)おまけ
 京都の公家の家人であった経歴をもつ、博識の変わった武人。 最初は庭氏の下で平家方だったが、後に頼朝に従う。 源平の合戦でも活躍したが、義経をよく思わず、頼朝に朝廷に懐柔されて いるとつげたため、兄弟険悪になったという事件がやはり印象的なのである。
彼は命はとられなかったが、頼朝により連判状にて政権から追放された。

●2代将軍源頼家殺害(1203)
 頼朝の死後、まだ17歳だった子の頼家は将軍になれず、宿老という 有力御家人の会議に政権を渡す。執権政治開始。 頼家は3年後将軍になるが、けまりとか京風の遊びばかり していて、政務をとらない。御家人あきれる。そして翌年急病。
 頼家の病気は、回復するのだが、それでも弟の実朝に 位を譲るようにいわれ、仕方なく21歳で出家する。
 そしてその翌年、修善寺で北条氏に殺される。はっきりいって、 遊んでばかりのしょーもない将軍だったので、同情論少なし()。

●比企の乱(1203)
 将軍・源頼家が危篤から回復した時、既に自分が死んだ あとの領土分割まで決めてた(笑)北条時政に激怒、比企に時政追討を 命じた。これが政子が時政に知らせたため、 時政が、 頼家の義父・重臣である比企能員を殺害。惜しい!....政子よ、 知らせなくてよかったのに!合法的に時政にご退場いただける、 すごくいいチャンスだったのに!政子も後、これを後悔することに ....()
 比企一族の家に火をかけ、将軍頼家の子まで巻き添えにして 皆殺しにして滅ぼした。比企の乱というが、北条氏が一方的に 責め滅ぼしただけ。しかも比企能員は悪くないのに...あーあ。

●重臣・畠山重忠殺害(1205)
 頼家殺害の2年後である。頼朝に最も信頼されていた重臣、 鎌倉武士の鑑とまで言われた重忠。最初は義理のため平家につき、 後に源氏にねがえったが、その経歴をものともせず源頼朝の 重臣となる。義経の平氏追討で大活躍。この人の正義感あふれる エピソードは数多い。
 その畠山重忠親子を、北条時政の指令により、謀反の罪が例によって でっちあげられ、幕府軍が鶴ヶ峰にて待ち伏せ、殺害した。 (義時、時房ともに、吾妻鏡によれば、畠山ファンである。 謀反なわけないだろ!と一度時政に反対している そうなので、これはよっぽど....) 死ぬ時も、ホント豪快でかっこいい人だった。
 これ、ほんとマズイ、一番まずい 事件と思う。だって畠山重忠だよ...当時の人間の鑑みたいな..なんてことを。 ....(共に平家と戦った)義経がいれば! これ以降、義時は父時政のあまりの非道ぶりを何とかせねばと考えるようになる...

●3代将軍に自分の婿、事件(1204)
 頼家のあと、時政は、自分の婿である平賀朝雅を将軍にしようとして、 自分の子北条義時につかまり、伊豆に幽閉される。さすがだ義時。欲をいえば、 もっと早く幽閉してほしかった

 よくもまあ、10年くらいの間にこんなにたくさん!!
 さて、証拠がないので入れなかったけど、時政はおそらく頼朝も ...殺害したのではないだろうか。この仮説は根強い。
 しかし将軍はともかく(ともかくじゃないか)、 共に東国の政府のために戦った、鎌倉の重臣を次々落しいれて いく様は、あんた何様??
 苦楽を共にした重臣は、この小さな政府の命だぞ。あほか。 朝廷が喜ぶだけ。 それにしても、みんな頼朝のお気に入りだぞ。 地獄で頼朝は、さぞ頭をかかえて いたことだろう。
 義時は幕府に必要だが、 時政は...いらない。
 頼朝は気がついたはずだ。 時政だけは地獄へ道連れにすべきだった。

■北条義時(1163-1224)
 北条義時は、時政の子。幼名小四郎。鎌倉の政府第2代執権。
 オレ様のじゃまをするは、力で消してやる!の純粋な悪役時政に対し、 義時はあくまで、 東国政権のためにその頭脳をふるった。家臣や諸豪族の信頼も、 時政とは比べ物にならないくらい、厚い。

 1205年の畠山重忠謀殺事件以来、父時政と決別状態だった義時は、 とうとう父を幽閉し、政治の舞台から追い出すが、 そのあとにも幕府軍が重臣を責め滅ぼす事件が起こっている。 1213年和田の乱である。おそらくやったのは義時である、
 義時が強攻策にでるのは、懐柔策、叙目、そのたもろもろ やってみてだめだった場合であることが多いのだが.... 和田の乱はそんな感じだが...、その代償はむちゃくちゃ大きかった。

 わずか11歳で将軍となった源実朝は、和歌や京の文化を 愛する青年だった。文学者として金塊和歌集など重要なものを残した。 子どもの頃の実朝は、義時とたいそう仲良くやっている。
 しかし実朝は、傀儡の将軍でよしとするいいかげんな人物ではなかった。 彼には、理想とする国家があったのである。 東国政権の理念と相反してしまう夢が。
 実朝は、成人したところで、政権を重臣の会議と執権から 自分にもどそうと試みた。それだけならそう深刻ではない。問題は 後鳥羽上皇がたくみに後押しをしている点である。それも 実朝と、彼の側近和田義盛の2人を、である。

 和田義盛は、実朝の親京都政策に賛成で、実朝から領土をもらい、 後鳥羽上皇から官位をもらい、強い権力をもっていた。
 この頃の実朝は、どんどん実朝に官位を与えて懐柔をはかる 後鳥羽上皇にあやつられ...るまでいかないけど、完全に ヤバイ状態にまで、幕府をもっていっている。
 鎌倉文化に、京の文化を取り入れていくのは、 たぶんみんな賛成だったと思う。ただそれと、 官位をもらったり、上皇の幕府への介入を認めるのとは、話がちがう!! 将軍にこれをやられたら、東国政権はおしまいである
 京の文化の導入を、あくまで武家の精神を貫きながら、さりげなく、摩擦も無く 行ったのが、後述の北条泰時・時房チームである。

 「実朝降ろし」。これがつまるところ、義時がしかけた和田の乱の原因とされる ものである。和田義盛のおいに、頼家の子を擁立し、将軍実朝へ謀反を考えたという 罪がかけられる。陰謀とみた義盛は、執権・北条義時に対し挙兵する。

 和田義盛は、若き日は源平の合戦を一の谷・壇ノ浦で豪快に戦い、鎌倉政権では侍所別当の要職をにない、 地元の民衆や豪族たちに絶大な人気があった。 多くの相模の豪族は、御家人の身分をすて、和田方についたのである
 初期鎌倉政権の最大の戦い・和田の乱。その終結は、身内の最大勢力 三浦氏の裏切りというさんざんなものだった。
 三浦氏は、大豪族千葉氏が鎌倉政権から去ったあとは、北条氏の最大のライバル である。特に三浦義村は義時の最大の政敵。しかし、義村は、いくつかの事件で 義時の敵側につき、途中で義時側に寝返るというのをくりかえしている。 義時も三浦氏本家だけは手をだしていない。なんか、あるんだこの2人。

 和田の乱は、相模を2分し、もし裏切が無かったら北条軍(ほぼ幕府軍)相手に勝利していた可能性もあるとされるほどの戦いだった。
 もし、和田義盛が...正しい方が勝利していたら?
 北条義時、政子、時房、泰時らが鎌倉政権からいなくなる、ということだろう。 そのあとは....源実朝、和田義盛の超・親京都政権? だとしたら、まもなく起こる承久の乱で鎌倉政権はかんたんに消滅する。


 もうこの次点で、鎌倉政権への御家人たちの信頼はボロボロ(のはず)である。 さらに和田の乱の6年後、将軍実朝もまた、2代将軍頼家の子・公暁に殺害された。 最後の砦とも思えた源氏の血がとだえたのである。

 かなり深刻な危機である。鎌倉政権の中枢にいる人物は、とりあえず確執は棚にあげ、 義時・政子に全面協力をするのだが.... 相模守北条時房と北条政子は、急遽後鳥羽上皇にあうため京にのぼるが、 ほぼけんか別れで鎌倉に戻ってくる。
 この大混迷状態の鎌倉に、京都からとてもタイムリーに一撃が やってくる。京都守護・伊賀光季が、朝廷軍に責められ自害。 そして朝廷の密使がとんでもないものを持ってくる。 守護・国司すべてに配られたという、 執権・北条義時追討令である。

 これが鎌倉最大の名場面・承久の乱。
 義時を選びますか?それとも、朝廷を選びますか?

 実は当時、この選択は考えられない。だって、鎌倉政権は、 名目上「朝廷に所属する組織」だったのだから。 もし義時を選んだ場合、その一族は謀反をおこしたことになる。
 後鳥羽上皇は確信していただろう。
「謀反人となってまで、忠臣和田義盛を謀殺し、名将畠山重忠を討った 北条義時に見方する武家などいるわけがない」

 さて事態は思いのほか、深刻だ。どーする?義時!

■承久の乱-1
 ※この章では、東国政権の呼び名として、当時使われていない「鎌倉幕府」の名を 使います。その方がここだけはしっくりくるのだ。
 承久の乱は、日本最大の天下分け目の戦いともいわれる。 理念も何もかも違う、2政権がその存在をかけて激突し、地方は自らの意思で どちらにつくかを決めたから。

 1221年5月15日、京都守護・伊賀光季は、 追討令をけり、屋敷を上皇の軍(事前に集めていた西面の武士)に 責められ自害した。ここが承久の乱の始まりといえる。その前に高野系の社寺や、京都近辺の 鎌倉政権を(というか、北条氏を)よく思わない武家 などが集まって相談ごとをしていたようである。
この報告は、 早馬の伝令がたったの4日で東海道(歩くと53日)を走りぬけ、 鎌倉に届く...。
 それとほぼ同時に、後鳥羽院が全国の国司・守護に送った密書をもった 密使がつかまる。その内容は、将軍九条ではなく、執権北条義時への、 追討令(院宣)であった。

    ----*----*----

 各地の国司、守護、有力豪族は、どうなったであろうか。 もちろんおおさわぎである。後鳥羽院(朝廷)につくか、執権(鎌倉政権)につくか、 自分たちで決断しなければならない。負けた方は滅亡するだろう... (実際しませんでしたが)

 北条氏の最大のライバル三浦氏の当主・三浦義村は、 上皇側についた京の弟胤義のさそいをけり、 みんなが立場を決めかねている頃、早々に執権・北条義時に忠誠を誓う...。
 かっこいいぜ!義村じーさん。鎌倉幕府設立以来、 どれほど三浦義村の力が役に立ったことか。 今回もまた...義時が、三浦氏だけは手付かずでおいといた 理由はおそらくこれ。追討令で動揺する 御家人たちは、早々に三浦義村が幕府についた ことで、少しは冷静になったのである。

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 この風見鶏疑惑のたえない三浦義村への「寝返りませんか?」 のおさそい、モチロン黒幕は後鳥羽上皇です。
 北条氏の、眼の上のタンコブ的政敵の三浦家。もちろん三浦義村も 義時をよく思ってはいない。そこに京にいる弟の三浦胤義に 「兄上、これは鎌倉政権ではなく、北条氏への追討令です。みんなから嫌われている 北条義時を排斥し、あなたの天下にしましょう...」 なんていう、スイートなおさそいを出させちゃうんだから。
 ほんと後鳥羽上皇って、敵にしとくのにはもったいない、 ステキな悪党だわね。うそにきまってるけど、この時朝廷と、 細かい政治戦争まっさい中の鎌倉幕府中枢にいなかったら ひっかかってたかもね。

 承久の乱直前の、近隣諸国への根回しも見事なのよ。大国・加賀が、 逆転で100%上皇側についたのは、反朝廷派の武家をうまーく挑発して 始末したことによるものだし。すっごい好敵手よね、義時の。

 ただ、北条義時には、彼と違う個性をもつブレイン、とゆーか 仲間たちがいた...的確な判断力をもつ心優しいおばさま・政子。 武士を楽に まとめる名補佐役・時房。この時代になぜか生まれた正義漢・泰時。 相模最強の武人・三浦義村。切れ味抜群の文官閣僚大江広元。 この時期、だれが欠けても鎌倉政権は滅びていたと思う。

 それに対し、後鳥羽上皇の取り巻きは....他の上皇たち (上皇がたくさんいるってこと自体なんか...)、大臣、 etc..はっきりいって、 ろくなやつがいない。この差ではないだろうか。
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 で、お話がもどって鎌倉。マジでマッ青・北条義時。自分のせいで東国政権・大危機 なのである。
 自分への追討令では、義時は 執権として号令は出せない。御家人たちが、自ら手をあげてくれるのを 待つしかない。しかし自ら進んで、自分のために朝敵となる武家が、 いったいどれだけいるか。
 政子たちは、京周辺の御家人が院についたことを 既に知っている。戦うか、降参するか、義時おいだしちゃうか、まあ 選択肢そんなとこ?
 なんたって北条一族、政子は上皇の意図はよくわかっている。 彼女は、武士たちを集め、次のように発表する。この演説は有名すぎる ほど有名だが、本来政子は公平で心優しい政治家。 こわいおばさんじゃないのよ()。

 これは、朝廷の命を受けて戦乱を平定した「東国政府全体への 、道理にそわぬ追討」である。
 頼朝以前、武士はひどい扱いをうけていた。そこに武士の府を たてたのは源氏3代である。これを無にできようか。今ここで 朝廷が勝てば、その昔にもどるだろう。
 われわれは、武者の府を守るべく、上皇軍と戦う(...言った)。 ただし院につきたいものは、今申し出よ。

 この戦については、上記の政子のゲキは有名だ。しかし、 この戦いの行方の全てを決めたのは、大江広元先生の 「箱根で待ってなどいては だめだ!こちらから進軍し、朝廷軍を向え撃て!」 の強攻策である。
 義時も時房も、「箱根で待ってましょう」という消極策。 こっちから出撃しないと、相手の思う壺だ!出陣すれば、 みんなついてきます。と強行策をただ1人主張したのは、京都からきた文官、公家出身の大江広元であるのだから、おどろき。
 大江先生は、源義家に兵法を教えた大江匡房のひ孫である。 こーゆーのを名臣というのですな。平泉征伐の提案とか 頼家暗殺疑惑はこれで帳消しだ!(..ってわけにはいかないスね) 彼は東国武士をばかにしきってる京のやり方を よく知っていたのある。

 そして、本当に朝廷軍を 待っているだけでは...危なかったのである。

■承久の乱-2
□承久の乱:東軍・西軍の内訳
※承久の乱は、どの地方にいっても、史料にどちらについたかがはっきり記されている、古代〜中世唯一の戦争です。それは、戦後処理として、北条泰時・時房が、幕府側として参戦した武家には 領地と地位を、上皇側についた守護や豪族は領地没収という、褒章懲罰をほぼパーフェクトに行っているからなのです。上皇側についた県は、1221年を境に守護の氏族がガラリと変わってますので、 はっきりわかります。
主な史料は、山川出版の「歴史シリーズ」(地元研究者による各県の詳細な歴史がのってます)、その他地元で買った伝説、民話集。インターネットの地誌関連HP。吾妻鏡は一応参考にしたが、地元の記録と若干食い違いがあります。
・西国--上皇側につく武家がほとんど。 それは当然、彼らの主人は朝廷である。また、 箱根の向こうの話なんて、この時代なら、フツー眼中にない。

・近江--守護の佐々木氏は源氏だが上皇側。
・加賀--守護から地元豪族まで全部上皇側。木曾殿の地元に近く、 反頼朝の感情が大きかったらしい。
・越中--守護はどうやら吉見氏。地元豪族は上皇側、幕府側、どちらもいた。
・甲斐--守護は武田氏。幕府側の有名人、幕府側。
・駿河--守護は幕府の要人。よくわからないけど幕府側でしょう

・美濃--守護の土岐氏は上皇側、地元武士団も西側は上皇、東側の一部が幕府側。
・信濃--信濃の守護は小笠原氏で、幕府側。地元豪族も幕府側。
・越前--守護の大内氏は上皇派。
・越後--何しろ当時の守護は北条氏。有力豪族の佐々木氏は上皇側。ただし鎌倉にいた佐々木信綱はもちろん幕府側の有名人。

・陸奥--陸奥守護は北条氏だったが、有力豪族は葛西氏、北畠氏など。どうやら幕府側らしいが 非常に記述が少ない。地元の伝承もない。さては参戦しとらんな
・出羽--ほぼ同上。記載がとっても少ない。



 後鳥羽院の計算は正しい。勝機は充分にあった、 というか、数でいえば負けるはずはなかったのだ。

 地方の国は、朝廷、鎌倉政権、どちらについたか国(現在の県で)の数を数えてみれば、 31対9(半々3、不明7)で、上皇側圧勝の図。 (すいません、数えなおしました)。関東をのぞくと、信濃、甲斐、美濃と越後の半分以外は全部上皇側!

 よく、「承久の乱は、後鳥羽院が状況を甘く見すぎたのが敗因」とかかいてある 解説本があるけど、あほか。 政治の天才・後鳥羽上皇がそんなドジはふみません。
 後述いたしますが、後鳥羽院は、よく待って、根回しも重ね、 これ以外はないくらいのタイミングで アノ倒幕(院宣)を出しているのです。

 なぜ、鎌倉側が勝てたのか?
この方がよっぽど不思議であります。
■承久の乱-3
 鎌倉方の首脳会談により、大江広元の「こちらから 進軍する」作戦採用がきまり、追討令にうろたえる御家人を 政子が説得し、朝廷と戦うことになりました。 (このようなのんきな文章で表現する場所ではないのだが...まいっか)
 北条義時本人が、富士川以東の御家人に、鎌倉幕府は 朝廷と戦う。手をかしてくれ。という文書を送ったわけですが、 諸豪族の皆さんは、この文書でどちらにつくか即決したようです。 そうとうな名文だったのでしょうね。
 ものすごい速さで軍?が編成され ました。京都守護殺害の報がはいってから、鎌倉を出るまで5日。

 やはり義時。自分が行かないのはよかったです、 ははは。 北条泰時・時房が総大将(メインの東海道ルート)なら、 東国武家の皆さん文句ないでしょう。 また、北陸ルートは、義時の長男・北条朝時らが率いており、 もう1つの東山道は甲斐の武田信光,結城朝光ら大将を勤めています。

 北条時房は、義時の弟で、優れた武士ながら文学・和歌・等をよく知り、 文系将軍の頼家、実朝にも好かれている温厚な人物です。時々武力で ものを解決することがある義時に賛同はしていませんが、義時の危機には 全面的に協力してくるため、兄からは信頼されています。また、 政治家として全力をだしたときの切れ味は、さすが北条一族です。
 北条泰時は、義時の子で、妾腹ながら嫡男です。そこまでして義時が 跡取りにしたがるほどの政治センス抜群の人物。武道もとても上手。 いかなる時も正義を選び、戦いをさけ、それでも 最終的に勝利をおさめることができるという、稀有な人物です。 正義の味方なので、凶作時には農民を援助して、大衆的人気も 抜群です。

 つまるところ、鎌倉政権きっての穏健派なんですこの2人。
 承久の乱は、この2人が総大将です。よりによってこの2人が、朝廷の敵として、 幕府軍を率いて、京都に剣を向ける。それまでの歴史で、朝敵となって、 朝廷に勝利したものはだれもいない。
 鎌倉側が、どれほどの決意だったのか、よくわかります。

 吾妻鏡には全員討ち死に覚悟で鎌倉をでた、とありますが、 これ本当です。何しろ東海道ルートは出発時、泰時本人を含めて20騎ほど。 すぐにその数はゼロが3つ増えるのですが、それでも、 少なくとも北条泰時と時房は生きて鎌倉に帰れるとは思っていなかった ことでしょう。彼らは優秀な政治家でもあります。「諸国はどちらにつくか」 はわかっていたはず。後鳥羽上皇と同じ計算結果を、導いていたはず。

 吾妻鏡の記述は、義時も泰時も 朝までさめざめと別れの涙を流したといいます。後鳥羽上皇本人が 軍を率いてきたのなら、その場で弓をすて地に伏し降伏せよ...という、 義時らしからぬ台詞も記録されています。
 (後鳥羽上皇は自分で軍を率い、敵に弓を射ることが楽にできる武人で あります)

 しかし、ここから奇跡がおきる。
 何しろ、承久の乱は、 鎌倉側の圧勝なのだから。


■承久の乱-4
 5月22日には鎌倉をでたとされる幕府軍が朝廷の軍と初めて顔をあわせたのは、 6月5日の尾張川(今の木曽川)の戦いです。 上皇側は、まさか鎌倉側が攻めてくるとは思っていなかったようで、あわてて 軍を送ったようです。しかし。弱すぎ。あっっっという間に、負けました。 ボルテージの差なのか何なのか。

 鎌倉で待ってる北条義時、1戦勝ったとたんに我にかえったと 思われる。上皇にむけた書状の内容は、すごいです....() ほとんどタンカです。後述。

 さて、朝廷と戦うという、 鎌倉幕府の意思を聞いてかけつけた関東各地の武士の数は、 どんどん増えて、予想外に多い。彼らは全てをおいて、 やってきてくれた。謀反人となり,朝廷と戦うために。何しろ、 自分の親や主が北条家に謀殺されている武家まできたんだから。

 関東の地誌には、どの土地でもまず、「幕府側として参戦」という承久の乱の 記録が残っています。 この”いざ鎌倉!”の物量が、奇跡の主なネタであります。
 彼らはなぜ、朝敵となってまで、陰謀やら何やらで信頼度メタボロ状態の 鎌倉政権のために集まったのか。
 関東一円には、現在も「鎌倉街道」の名で鎌倉へと伸びる道路が何本も 残っています。数世紀にわたり、私たちの祖先が守ってきた道です。 彼らが守ろうとしたものは、今もここにあるのです。

 関東各地から集まった武士は東海道、北陸、東山 3ルート合計で19万人と記録されている。 町1つである。水増ししたにしてもすごい。
 その大軍が、驚異的なスピードで箱根や富士川を越え、中央アルプス をこえて京へ進軍していく。
 対する朝廷軍は、...全部で2万くらいと記述されている。それにしても 2万の割りに負けるのがむちゃくちゃ早い。戦いの記録らしいのが あるのが東海道ルートの尾張川、北陸ルートの加賀国境、東山ルートの 美濃の不破の関くらいで、どこもあっという間に退散している。

 東軍と西軍(承久記や地方史では、鎌倉側を東軍、朝廷側を西軍とよんでいる) の最後の戦いが6月14日、京都の宇治川。源平の合戦の再現の ような場面です。
 今度ばかりは朝廷軍はきちんと応戦しました。  宇治川の戦いも、結局幕府軍の圧勝に終わり、東国の武士たちは そのまま京都を包囲しました。この濁流の宇治川戦、幕府軍の指揮をとったのは 北条泰時でした。
 承久の乱は、 鎌倉政権が、全国に、初めてその力を見せたときでもあったのです。

 そして、結果的にですが、後鳥羽上皇は、鎌倉政権の影響力を全国化し、 数々の陰惨なゴタゴタをリセットするという、素晴らしい働きをしてしまった のであります。和田の乱、実朝暗殺以降のあのさわぎ、これほど見事に棚に上げ.... じゃなかった、収拾することができるなんて。院に感謝しろよ、義時!!

 えーでは、実際の戦いと、その戦後処理をもう少し詳しくみてみましょう。

■承久の乱-5
 実際の京まで各ルートはどうなっていたのでしょう?
 推定10万(サバよみ入)の軍は、東海道を西に進み、徒歩なら東海道53次 2ヶ月弱かかる道のりを、戦闘も交えながら1ヶ月の速さで京に到着する。
 別ルートでは、加賀へ4万騎むかい、これも驚異的スピードで山を越えて加賀に のりこんでいる。加賀あたりの武家は、木曽義仲を追討した 源氏をきらい、このときそろって上皇についている(ハズ)。 しかし実際は、中央アルプスをつっきってきた(と思われる) 北条朝時(義時の正室の子)率いる疲労困憊の幕府軍に、 ほとんど戦った形跡もなく完敗したらしいことになっている。
 加賀100万石は、渡来人が早期に高い文化を伝えた先進の地域。初めて中央アルプスを こえたよーな連中に負けること自体、考えにくい。 この不自然な記録のなさかげんは、いろいろ想像してしまう。

 北陸道軍は、東京から一週間かからず直江津に到達している。越後は トップは朝廷方であるが、地元の伝承では鎌倉方についた者が多いとある。 そのまんま、通してくれたのであろう。
 その隣の若狭(福井)になると、話はまったく別で、 上から下まで京よりである。これはほんとに幕府軍は戦って通ったに違いない。
 北陸道の総大将・北条朝時。 東海道ルートの総大将ばかり脚光をあびがちだけど、この未知のルートを 事故もなく進軍させた力量はみごとだったと思います。

 さてもう1つの ルート、甲斐から、長野県の山岳を通る東山道では、竹田信光 が大将で、関東の武家とともに、地元信濃の武士が 加わっている。信濃の守護は源氏系だが朝廷についた。しかし、信濃・美濃の 地元伝承は、明らかに幕府よりである。幕府は美濃の不破の関に軍をだしているので、 ここで一戦あったのは確かである。ただ他の例にもれず、すぐ終わったようである (もちろん幕府軍の勝ち)。このルートのほかはどうだったのか... というと...スミマセン()、このルートだけは、まだ地誌をよく調べてないので... 詳細が不明デス。

 えーまーとにかくー()、この合わせて19万?の軍がつく 前に、義時の伝言を上皇の密使が持って帰っている。 ナントそれまでは、戦況はそう悪いものではないといった話が、 上皇に伝えられていたそうである。
 はあ??側近や部下はよく選べ!!院!情報戦完敗じゃないの、もーーー!

 上皇様、あなたが武士を集めているならば、東山・東海・北陸の3道 合わせて19万騎の武士を都に向かわせますで、どうぞ御簾のすきまから、 彼らの戦いをご覧くださいませ。
 またこの伝令に、新たに武士を集めるよう指示されたようですが、 その場合には、ワタクシ義時自らが、新たに10万騎の軍勢を率いて 都に赴き、御前で戦いをご覧に入れましょう。(「承久記」より)

 やるね、さすが義時。ちなみに鎌倉の連中は、後鳥羽院が、御簾の中で じっとしてるような人物ではなく、弓馬の名手であることは、 よく知っています。
 さてこれはきいたらしい。後鳥羽上皇および朝廷側武家は、やっと本気になる。 (よかったよかった。このままでは承久の乱は、戦記ものとして見せ場ゼロだよ) これまた追討令の時の幕府並みのスピードで、防衛軍が集められました。
 しかし残っているのは京都直前、宇治川の戦いだけ。この1戦だけが、 幕府対朝廷の戦いという名にふさわしい、激しい戦いでした。
■承久の乱-6
 宇治川...源平の合戦の、あの源義仲-義経戦で知られる、荒ぶる川です。 特に大雨のあとは濁流と化します。
 源平時の宇治川で先陣争いをした佐々木高綱と梶原景時、なんかすごい勢いで川を 渡った畠山重忠、そして大将としての初陣だった義経...その全員が(いや 高綱は普通に死んだっけ^^;)鎌倉政権により謀殺あるいは追放されているのです。
 でもって場面が承久の乱のクライマックスでしょ。宇治川戦の東軍指揮官・ 北条泰時、もー感慨だか何だかわけわからなかったことでしょう。

 西軍は岸で矢を射掛ければいいのですが、東軍は京都に入らないといけない。 東軍は増水で濁流状態の宇治川を渡りながらの戦いとなり、そのため宇治川戦だけは 吾妻鏡・各県の史料ともに、幕府側の大勢の戦死者が記録されています。
 泰時は義経と同じく、濁流につっこめー!の指示を10万の軍に出し、 何割かの兵を失いながら渡りきり、朝廷軍を壊滅させます。これで3つのルートの 幕府軍が集り、京都はくまなく包囲されます。
 名高い歴史と風水の都・京都を、無位の者、それもふだんは農民やってたり する東国の武士たちが、包囲する...なんてことができたんですねー。 北条泰時がこの時号令をだせば、一夜にして京都を焼き尽くすことも できたでしょう(泰時がやるわけないッスが)。でもこれで充分なんです。 都が、東国政権の武士に包囲される...これは京都在住者すべてにとって そうとうな屈辱と考えられますから。あーおもしろ...あ、いやうそ!ごめんなさい!

 天皇も上皇もひっとらえられて、首謀者とされた順徳天皇は佐渡へ、後鳥羽上皇らは 隠岐に島流し。一応、後鳥羽院はすぐに義時追討の院宣を取り消し、 首謀者は近臣の葉村某であると言い訳したが、相手は北条泰時、朝時、時房たちでしょ。 通じるわけがない!ついでに初めて、天皇家の所領が没収された。 (鎌倉政権はそれまでは荘園、皇族領にいっさい手をつけていない)
 京で応戦した上皇軍の武家は、トップほぼ全員斬首。 その後京都に監視組織の六波羅探題がおかれ、守護、地頭はこの時初めて全国展開。
 今までの東国政権からは考えられないような、非常に厳しい措置であります。 東国の政府は、初めて、朝廷に対し、怒ったのです

 明らかに西国の認識が変わりました。東国政府の力というものを認めたのです。
 東国政権が、最初は夢にも思わなかった全国の支配が実現してしまいました。 制度上は朝廷と並び、事実上の権力は上になりました。
 具体的には、西日本にも守護・地頭をおいて、朝廷についた領主(守護)を クビにし、功績のあった武家にその地位と領地一部を与えた、というわけです。

 この褒章と懲罰は、六波羅探題(つまり泰時と時房)により、本当に丁寧に、 全国におこなわれました。こんな丁寧な戦後処理は、日本史上、関が原と承久の乱だけです
 もう1つの戦後処理は、京都の町・貴族社会に平静をとりもどしたことです。 幕府は天皇の権力は制限しましたが、藤原定家など有能な貴族は重く用いました。 実務にあたった初代六波羅探題の北条泰時・時房は、京の貴族社会を恐怖におとしいれた あの東軍の総大将であるにもかかわらず、多くの貴族から信頼をえることに 成功しているのです。
 このあたりの泰時・時房の政治力は、超人的としかいいようがありません。 アノ、武士を下にみて、田舎者に容赦のない京の貴族たちの日記で、彼らは 絶賛されているのですから。 承久の乱の本当の価値は、この一連の戦後処理にあるのです。

 で、具合のいいことに、このわずか3年後というグッドタイミングで 執権が交代します。新しい執権こそが、  前2代執権や,源氏将軍とは、一線..いや2,3線は画す くそまじめな、 正義のヒト・北条泰時。時房も執権の補佐役として、生涯活躍します。 泰時の改革(減税、飢饉対策)で、 地方の民の暮らしは 大きく改善され....そして日本は初めて、法治国家 --日本初の成文法・御成敗式目の制定および地方適用--への道を歩み始めます。


■戦前の教科書の「承久の乱」
 次にあげる解説は戦前の歴史の教科書における承久の乱(承久の変とかかれている)の記述です。 この教科書で習った人が団塊の世代らしい。今の教科書論争なんて、たいした 問題に思えなくなるくらい、衝撃的でした。ハイ私には。
「承久の変とは、天皇のお心にそむき、勝手に兵を挙げて、 京都をさわがし、しかもなんと、天皇を退位させ、上皇3名を 流刑にするとは、古今に例のない大事件。 北条義時の不忠不義といったら 筆舌つくしがたいひどさである。」
         (現代語訳:LV1うに)
 ...筆舌つくしがたいひどさである。
■後鳥羽上皇(1180-1239)
 1198年、17歳にて退位し、上皇となり、以降大活躍する方。
 古今集以上の評価を得ている新古今和歌集の勅撰の詔をだした方。 掲載されている和歌はいずれも 傑作。また有職故実に関する本も編纂しており、文学者・ 歌人としてだけでも歴史に残る人なんだけど、この人ホントに文武両道で、 「自分で流鏑馬ができる上皇」として歴史に名を残してあげたいものだ。
 さまざまな武芸を愛し、馬にのって狩もするし、弓もとても上手。 土木工事もよくやるし、政治の名手でもある。彼の手ごまといえそうな 3代将軍実朝がもうちょっと長生きしてたら、幕府はどうなってたことか。 (..と考えると義時!アンタは悪党だけどたよりになるよ。) この人に北面の武士が従ったのは、わかる気もする。

 武家と交渉?した天皇は色々いるけど、何をやってるんだ何を...という 後白河法皇などよりも、一貫していて人の好き嫌いで何かするわけ じゃないとこが好感がもてるし、 周囲の信頼もあり、敵ながらあっぱれなやつである。(上皇をやつと いっていいのか?自分)。鎌倉でも、ひたすら京文化を 愛する源実朝と、騎馬の名手・後鳥羽上皇を交換したい...と思うやつも いたとかいないとか....

 惜しむらくは往生際が悪すぎたこと。北面の武士たちが 逃げてくれば門をとざすし、承久の乱の首謀者はオレじゃないとか 言い逃れするし。...そーゆーオモシロイやつに私家版承久記は容赦ないわよ(笑)。 最後は泰時の前で追討令を撤回し、謝罪する潔さなのだから、 最初っからこれやれば、吾妻鏡や教科書の評価も変ったのに。

 この後鳥羽上皇も、調べれば調べるほど、好きになっていく ダークな才人。このへん、すっごく義時と似ている
 いやーいつか大河ドラマの主役になりませんかねえ。ええ初の ピカレスク・ロマン!隠岐に流刑で終わるのは地味すぎだから、 ちと史実と違うが義時をまきぞえにして鳥羽離宮炎上で終わるとか。 あー、でも敵役の義時も悪党だしなあ。 悪党しか出てこない、まあいいか。

 後鳥羽上皇は、承久の乱については、あんまり評価が 高くない。あまりに楽観的だったとか、もし負けてもたいした ことにならないと甘く考えていたとか、たいていの本には 書かれている。そ、そうかなあ..?。
 1219年、源実朝の死。その犯人公暁も殺される。 源氏が途絶えたという一大事で、京都の御家人がびっくりして 鎌倉に帰ってきちゃうくらい。
 その機に頼家の庶子の小さい反乱。 ここで上皇、守護地頭職の任免へ介入し、ゆさぶりをかけたりしてます。 後任将軍さがしにおおわらわの鎌倉.... 新将軍は、源氏に匹敵する 重みがないとだめである。で、後鳥羽上皇の子供から、 という申し出は、政子か義時の絶妙の朝廷懐柔案でありました。
 けっこうおいしそうな案なのに、これを飲まない 後鳥羽上皇。さすがである。こんな申し出を受けたら、今後 朝廷は、永久に鎌倉政権を討てない!

 何しろ政子・時房が鎌倉から上京してのお願いをけった のである。ケンアク...もう、後鳥羽上皇は反乱を考えて いただろう...。反乱...ではないのかも。承久の乱以前の 鎌倉幕府は、朝廷の下に属する組織であるのだから。
 朝廷は初めて日本統一を行い、それからづっと続く王朝である。 特に前期平安朝は、話半分に聞くとしても、続日本紀の記述から、 国を治めるものの気概が感じられる(ただしそれでも関東以北は 治めてるとはいえない)。
 長年の朝廷との主従関係が 西国の基本であったので、この時代の守護は地元豪族だし、 地の果てにあるよく知らない鎌倉幕府につく人はそうおるまい、と私でも思いますね。 上皇はタイミングも何もまちがってはいない。

 ではなぜああも大差で負けたのか?
 北条義時個人への追討令だとは、だれもみなかったこと。 東国の武士が、全てをチャラにして鎌倉幕府を守る意思を示したこと。
 上皇の計算外だったものは、この意思だ。鎌倉の政権が、初めて政府--鎌倉幕府として 認められた瞬間でもあった。 こんなこと、後鳥羽上皇は想像もしなかったに違いない。

 後鳥羽上皇は、流刑の地・隠岐の中島で19年をすごす。 風光明媚な隠岐。 島では歌をよみ、刀鍛冶をやり、豪族たちや庶民との交流も多く 記されている。これだけみるには、流刑の皇族としたら優等生。
 でも、この人のファンとしては、なんか...せつないです。 逃げ出してほしかったー! 義時もすぐしんじゃったから、怒りのエネルギー源がなかったのかなあ。 流刑地でのんびり19年がアナタの最後だなんて、思いたくないよーー()!

 後鳥羽上皇にまつわる関西の史跡は京都以外にも多く、伝承も多い。すべて、 ハッピーで暖かいものであります。彼を悪く言う者は関西にはいない。
 でも関東にもいないのだよ。たった1人で日本全国を相手にした稀代の天才 政治家に、送る言葉はこのページ書いてる私でもただただ賞賛以外でてこない。
 歌人としても大伴家持の次に好きなのがこのヒトだったりします。 史実でみれば、義時同様、悪党なんだけどね。

   ---*---*---
 ちなみに、承久の乱、21世紀の今をもって、なぜか 思いっきり関東と関西で記述内容が違う歴史イベントである。
 承久の乱と、後鳥羽上皇の往生際の悪さの話は、箱根よりこっちの 日本史の授業では、一番盛り上がる場面でー(笑)、先生も気合はいる んだけどー、近畿以西では、もう一瞬で終了させたい場面らしい()。
べつに、かまいませんが。
もしあなた方が政権ならば、京周辺を治めるのみでなく、 国全体を治めよ。それだけよ、 こちらの言いたい事は。


■北条時房(1175-1240)
...時房を、紹介する必要があるのだろうか()。 えーとですね、ご存知ない方は、ここをよんでみてください。
 北条時政の子で、政子・義時の弟。頼朝亡きあとの、脱線状態の初期鎌倉政権を、 何とかかんとか、だましだまし、道理の政治の府まで、軌道修正した 影の実力者。生涯補佐役で、表舞台に立つ事はなかった。

 時房は、8歳下の甥っ子・執権北条泰時と組んで仕事を することが多かったのですが、これがまた....北条政子&義時 ペアとのコントラストがすごくて(笑)。北条一族って、白か黒か しかいないのか?詳しくは北条泰時の項目よんでください。

 人生後半はまちがいなく稀代の名参謀なんですが、実績の割に歴史家に人気がないのは、 若い頃、あのしょーもない2代目将軍頼家の側近だったという().... 事実が足をひっぱってることは...おそらく間違いない。
 でもさあ、義時についてたら陰謀の片棒じゃん!だから私は大目に見ている。 しかし、この「蹴鞠時代」は、時房ファン全員忘れたいんだよね....(^^;)

 時房は、3代将軍実朝にも好かれている。 実朝は評価が分かれる将軍だ。1203年、12歳で将軍就任、 子どものころはロボットだったので政子・義時にも好かれて いたが、彼は政治をやる気はあった。その最大の後ろ盾、和田義盛 を失ってからも、別当制度を改革、京都関係者を重用しはじめた。 実朝くんは、たしかに武道はきらいだった。でも、だからといって 政治ができないわけじゃない。
 これは義時と政子のみならず、三浦氏以下、重臣の神経を、 かなり逆なでたようだ。実朝の奥様なんて、摂関家、後鳥羽上皇の 親族である。 私は歌人・実朝は好きだが、後鳥羽上皇の言うことをよくきいて、 露骨に鎌倉の京化をすすめる政治家実朝はきらいだ。 時房、キミはどうだったの?中立であったと信じたい。

 1219年実朝暗殺。暗殺した頼家の子・公暁も殺される。 頼家の庶子が、小さい反乱を起こす。 この機に乗じて、朝廷が守護地頭職の任免へ介入してくる。 (政治の名手・後鳥羽上皇のゆさぶりである。)
 何とかせんと....で、時房は北条政子とともに 上京して後鳥羽上皇と次期将軍について交渉するが、決裂。 将軍をめぐり混乱する鎌倉。この事態を理解しているのが、 やっぱ時房(と泰時)のえらいとこ。確執を全部たなあげ、 義時と政子に協力した。京と話が通じる時房は、政子に とってはいいカードであったことだろうが。将軍は、 幕府のどの派閥とも縁遠い?京の九条家から迎えて、 騒動は一応おわるが...

 さてこのわけわからん中に、後鳥羽上皇の執権北条義時 追討令。混乱なんてもんじゃなかったろう。 よくまー持ちこたえたものである。 これ以降は、承久の乱と北条泰時の項目をごらんください。

 承久の乱前後、時房は、彼の全才能をつぎこんで、 細い綱の上を全力疾走するような政治を行っている。
 京都での交渉決裂から、将軍内定、休む間もなく承久の乱の総大将。 10万の軍勢を1ヶ月間、食料・進軍方法そのた何とかかんとか テンションを維持し京都入りさせる腕前。この寄せ集め軍を 言うこと聞かせただけでもすごい。京都を包囲、衛士はほっといて院側の 武家屋敷だけを炎上させる作戦。天皇退位、3上皇を遠島の 超厳しい処分(おそらく義時の指示)を毅然と実施させた政治力。 そのあと、反感でいっぱいの京都・特に貴族らと和解をはかる 和の政治。これは京文化に詳しい時房と泰時じゃないとできない。 各地の幕府派・上皇派を丁寧に調べ、幕府についた ものにはすべて褒章を与えるキメ細かい戦後処理。(各県の地史を みると、ほぼ完璧にやりとげています。こんなの承久の乱だけ!) よくも全て成功させたものです。歴史学者よ、蹴鞠時代を帳消しに して余りある実績ではないですか。そろそろ認めてあげてよー()。

 泰時もこの頃の仕事重積状態は同じ。そして義時も政子もであるが、ここでだれ1人足を ふみはずさないんだから、このへん北条氏の底力である。 これがたぶん、源氏になかったもの...
 でも、これで、時代は決まった。 日本の政権となった鎌倉幕府では、 平安朝や初期鎌倉幕府とは、165度くらいは違う、 道理の政治が行われる。ありがとう時房。 あなたがいなければ、たぶんこれはなかったと思う。

■北条泰時(1183-1242)
 北条義時の側室の子。 第3代執権。武士の法律関東御成敗式目の制定者。
 あーやれやれ!やっと泰時だ。これで安心? それにしても、アノ!!北条時政・義時陰謀親子からよくこの、 真面目ひとすじの子が生まれたわね。(あまりに性格が違うのと、 出生の記録がアヤフヤでで、頼朝の子説もある。)

 幼名金剛、そのとーり日本史上まれにみるダイヤモンド。 泰時は政治家としての実績が高すぎて、文官みたいみえるが、 13歳で平泉征伐に連れて行かれ、新年の流鏑馬の 弓手も務めた、鎌倉武士であります。 1213年、和田の乱で幕府防衛に活躍しました。

 承久の乱では、父に代わり、叔父・時房とともに、 幕府の全軍を率いて、上皇軍を迎えうった。 そのあとは、混乱する京の六波羅探題に就任する。

 泰時は側室の子であるので、本当は嫡男ではない。しかし政子の後援で 正室の子をさしおいて、義時のあとをついだ。簡単な歴史本では あっさり継いだみたいだけど、もーまた内紛かよ...()で一波乱 あり、その結果、弟の政村と彼を擁立した数名が伊豆に流された。 しかし政子の説得で裏切って、泰時の窮地を救った三浦氏は免責。 その他正室の子たちに 遺産を多く与え、何とかかんとか平和を保ったらしい。
 これは、そーとーひどい話です。承久の乱で、父義時から、 泣く泣く 「我々に非はない。正面きって戦い、討ち死にせよ」といわれ、 総大将を引き受けたのは、泰時でしょう!(ちなみに長男朝時は北陸 ルートの大将を見事につとめています。)さらに周囲は全て敵の 京都六波羅では、なんとか朝廷と和解し苦労の舵取りでしょ、... こーゆー政治的に難しくていやな役ばっか泰時にやらせて、後継ぎ は自分たちですってえ!マッタク。
 この時期の執権をやってみろ、正室の子ども達。鎌倉時代は、たぶん歴史上 存在しないわよ。

 さて泰時が執権となるや、11人の合議制による 評定を開始。これはあまりにいいので、後に朝廷がまねをした。 また連署という執権補佐役を制定し、昔からのパートナー 北条時房と組んで政治を行った。
 執権北条義時の急死、そのあとの政子の死で、 たいへんな時期、東国政権をささえ、安定させた比類なき 名執権。幕府を新しい時代へと、見事に導いた。

 泰時は、金沢文庫を実時に作らせるなど、数々の事業を 成功させるが、一番はやっぱ、貞永式目(関東御成敗式目)かな。 ご成敗式目は、武家初の法律で、その後の武家社会 の基本とされた。その理念は、弱者を見捨てず、 どんな身分の者も「道理」に従うこと。
 道理、それは人が生きてきた道の理。公平の原則。 これを間髪いれず地方政治で適用させたのは、やはり 鎌倉の政治家だよね。 地方に公平な裁判の機能が入ったのは、鎌倉時代からである。
 また、泰時は、地方の飢饉には援助をかかさなかったことで 知られる。税をとる以上、 民を守る義務がある....道理の政治、泰時だねー。執権になる 前から、飢饉で食料を民に配ったという逸話がいっぱいある ヒトでもあったが。

 この方、仕事の鬼で知られる。仕事にせいだしすぎ、桜が散る まで春がきたのを知らなかったとか、まあそんな逸話が いっぱい。前2代がまるでうそのような、 真面目で仕事一筋の執権だった。 文武両道というのがまたいいっす。藤原定家と親しく、和歌も 多く残している才人。

 あーそれにしても。陰謀うずまく鎌倉政権初期の風潮に飲み込まれず、 よくまあこんな正義漢が生まれたものね。 この第三代執権・泰時の存在自体、実現しちゃった御伽噺である。
うーん、これは、もしかすると....、全て、時房、キミの おかげなのかもしれないね。泰時をこんな人を育ててくれてありがとう。 泰時と時房がチームで仕事をしている場合、けっして舵を取り違える ことがない。もー抜群の安定感である。

公式史書「吾妻鏡」では、60歳での 死去のさい、もんのすごいボキャブラリーの大絶賛文が掲載されている。農民から家臣から重臣から将軍から、どんな身分の人も泣いた という。しかし、南朝の天皇本「神皇正統記」の著者北畠親房まで、 泰時を絶賛しているのは、ちょっとすごくありません? えー、でも、ファンとしては、まだほめたりないよーな..... どーでもいいが、こいつも幸鷹に似てる...


■鎌倉今昔
 野の花と、坂道、小さな森。古い街並み、小さな本堂、 金や赤で塗られていない自然木そのままで作られた社寺。 史跡らしくない史跡。 鎌倉は、散歩で一周できちゃいそうな、小さな町だ。
 威容、絢爛、雅..といった言葉とは無縁の町だが、おそらく 中世当時も無縁だったのだ。社寺へ通じる狭い山道を歩いて いると、いつの間にか、心はゆったり穏やかになっていく...。 星月夜鎌倉---他のどの都にもない「品」をもつ町である。

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