「李船長(彼は私のことをいつもそう呼んでいた)、私は地球にもどる間の肉体的ストレスに耐えられるよう4日間にわたり仮死状態におくことを考えています。心臓に負担をかけずに地球へ帰還するにはそれしかないそうです。
こちらの医療センターでは、心臓手術のための設備が十分ではないこと、テレプレゼンス手術も事実上不可能なことから対処できないそうです。地球の医師にセンサー情報が伝わり、医師によるコントロール信号が月の手術機器に伝わるまで2秒以上もかかるというのは、とくに心臓手術では致命的だそうです。
低温食塩水を徐々に体内に注入しながら血液を抜き取ります。
組織に供給される酸素量を低下させます。意識も心拍も失い、呼吸もしなくなります。
地球上では臓器移植など、緊急医療現場を中心に広く使用されている技術ですが、月ではまだ事例がありません。人間が仮死状態に入れるのか疑問に思うかもしれませんが、自然災害においても人間が無酸素状態に数時間以上も持ちこたえられた事例がいくつもあるそうです。火星有人飛行のための仮死状態の研究も進められていると聞いています。
放置すれば、私の心臓はあと2年くらいがせいぜいだそうです。いずれにせよ、死の恐怖と再び闘わなければなりません。
なにもしないで死を待つよりも、少しでも希望のある闘いに賭けてみようと思うのです。
李船長は、『もし、何も希望が見えなくなったらシャクルトンを読みなさい』と手紙に書かれていましたね。いままで地球物理学者のシャクルトンかと思っていましたが、20世紀初頭に南極横断に挑んだ人物であることをそのとき初めて知りました。
図書室で、何度読み返されたか分からないようなシャクルトンの本を見つけました。表紙の裏には、にじんだ字で「ジェイムズ・ヴィンセント・タイラー」とありました
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